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 これは道元の『正法眼蔵』に出てくる話だが、ある僧が「古仏心とはなんですか?」と大師に尋ねると、「世界崩壊だ!」と答えたことが紹介されている。崩壊する世界とは、この世のことである。静かに見つめれば、この世に崩壊しないものなど一つもないのである。それは現象世界の相である。私たちの身体も新陳代謝を繰り返しながら絶えず崩壊しているのであり、もしこれを止めれば生命の営みは終わるのである。それは私たちの信仰においても、精神においても、人や物や事との交流においても同じであり、それは生命の自然な姿である。世界崩壊の背後には、生み出してやまぬものがあり、それが道元が説く「古仏心」である。
 極寒から水温むまでの気候の変化が見舞うこの時期、各地では起源も分からぬ古来からの行事がいとなまれるが「節分」などはその代表的なものである。追儺(ついな)や「鬼遣(おにや)らい」として源氏物語にも描かれたことから、この行事は世界中の読者の知ることとなった。追儺とは〝難を追い払う〟ということだが、「難儀は節や、節から芽が出る」と天理教祖は説き、「至道無難(しいどうぶなん)、唯嫌揀択(ゆいけんけんじゃく)」と仏教では云い、難と見える悪現象本来無し、顧みて「天地一切のものと和解せよ」と、生長の家は大調和への道を示している
 生長の家の教えに導かれた日々を振り返ってみれば、私たちは諸先達から日時計主義のご指導を頂いてきたお陰で、道を開かれたことに思い当たるのである。日時計主義について、『生命の實相』には「『生長の家』では出来るだけ、輝く喜びの時刻だけを記憶し、語り、想い出す。喜びに言語の再現力、言葉の創造力を応用するのである」と教えていただいている。これは『生長の家』誌創刊号より一貫して変わらぬ生長の家の生き方であり、そこに、人生万般のことに応用できる〝救いの秘訣〟が示されている。
 「神に感謝しても父母に感謝し得ない者は神の心にかなわぬ」とみ教えは説いている。天地の愛が、仏の大慈悲が、父母となって顕れていればこそ、あなたはこの世に生まれてきたのである。あなたが今ここに確実に存在していること、そのことが、まぎれもない神の愛が、父母となって確かに存在していたことを、証ししているのである。
 年末が近づくにつれて、まるで潮が満ちてくるように「時」が豊かな色彩を放ち、その密度を増してくる。道元は「有時」の巻で、「時」とは「有時(実在)」であると説いている。時は生きているのだ。時そのものが、仏性であり神のいのちである。だから、私たちは時とともに生長し、時とともに癒やされ、時とともに物事が成就するのを見るのである。
 過日、機会あって樹木希林さんが主役を務める「あん」(2015年 監督・河瀬直美)という映画を家内と観賞した。あんとは、あんこのアンのことで、樹木さん演じるあんこ作りの名人は、小豆(あずき)を煮るたびに、豆たちが旅してきた月日の物語に耳を傾け、季節の風が運ぶメッセージを聴き、人々が隠し持った心の痛みに、そっと寄り添っていた。
 一雨ごとに、季節の扉(とびら)が開いていく。光や風は、神の慈悲の顕れであり、雨や雪は、仏の喜捨の働きである。それが縦糸、横糸となって織りなす季節の美しさは、神様が地球の生きものたちに捧げられた無心の奉仕の姿のようにも見える。
 ラジオを聴いていたら森山直太朗の「夏の終わり」という歌が流れてきた。たまたま傍らにいた娘が、この歌は、戦死した親しい人に捧げられた挽歌であると話してくれた。切々とした歌声の背後には、一つの時代を生きた人々の物語がひそんでいたのかと得心したのであるが、たとえば次のような一節がある。「夏の終わり 夏の終わりには ただ貴方に会いたくなるの いつかと同じ風吹き抜けるから――」。
 地球温暖化による気候変動が深刻さを増している。豪雨の一方で懸念されるのは、干ばつによる水不足である。かつて奈良の教化部長をしていた北尾己代治講師(故人)が、四十年ほど前に宇治で開催された全国地方講師研修会で〝雨乞い〟について次のようなエピソードを話されたことがある。
 熊谷守一という画家の一日の暮らしを描いた映画「モリのいる場所」という作品を息子と観てきた。彼は晩年の三十年以上に及ぶ画業生活を、木々が鬱蒼と茂る自宅の庭で過ごし、庭に住む野鳥、昆虫、草花を観察し、魚と心を通わせ、庭から外に出る必要性をまったく感じなかったようだ。そんな充足感に充ちた暮らしぶりが、同じ観察者の目線から慈愛をこめて描かれていた。

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