信仰随想 「多摩川のほとりにて」(久都間 繁 教化部長)

 三十年以上も前のこと、夜明け前にモーツァルトのピアノ協奏曲24番を聴いているとき、曲想とともに輪廻のいとなみをまざまざとたどっているような、そんな不思議な経験をしたことがある。輪廻とは「衆生が三界六道の迷いの世界に生死を繰り返すこと」(大辞林)と辞書の説明はありきたりだが、そんな無明縁起の説を超えて、輪廻は私たちの使命と深く関係しているように思えてならない。
 生長の家が掲げる〝新しい文明〟とは何か? それは、伝統的な言葉で表現すれば〝地上天国実現〟ということである。この文明は、どこか他所(よそ)からやってくるのではなく、その種(たね)(実)は私たち一人ひとりの内に宿っているのだ。その種のことを神性といい仏性という。それを育てることによってのみ〝新しい文明〟は花開くのである。すなわち〝地上天国実現〟は、私たちの一挙手一投足(いっきょしゅいっとうそく)がその槌音(つちおと)となり、礎(いしずえ)となるのだ。それはよそ事の未来ではなく、私たちが神性・仏性を生きたところにのみ具体化する〝神の子の文明〟なのである。
講習会は教区の運動にとって大きな節目となる行事である。これを通して、新たな〝動き〟があるのは自然なことでもある。去る者を追わず来る者を拒まずという諺(ことわざ)があるが、生長の家では、去る者も神の子、来る者も神の子として拝むのである。その法爾自然(ほうにじねん)の〝動き〟の中から次の運動が形成されていく。
生長の家が実現しようとしている〝新しい文明〟とは何か。それは、「自然の繁栄が人間の繁栄と幸福であるような生き方であり、そんな生き方を支え、拡大する力となる信仰や哲学、科学技術、経済、政治の全体をいいます」と総裁先生が「新年のご挨拶」でお説きくださった〝遠大なビジョン〟のことである。
昨年十月ごろから「真理講話による地区訪問」をさせていただき、二十数会場を廻らせていただいた。その折に「四無量心を行ずる神想観」を皆さんと実修させていただいたが、この祈りについて、若干の所感を書かせていただこうと思う。
年末年始は、古代から受け継がれてきた行事や伝統が生活に色濃く現れるときでもある。日照時間が最も短くなるこの時期、冬至祭などの太陽にまつわる行事が北半球の各地で行われ、欧州ではゲルマン人の間にあった太陽神崇拝がキリスト教公認後は夏至は聖ヨハネ祭、冬至はクリスマスとなって伝えられ、日本では天下万民の罪穢(けが)れを浄める大祓(おおはらい)が行われている。
終末論は、世界の終わりを告げる教義とされているが、かつて大学で西洋思想史について学んでいたとき強く印象に残ったのは、「キリスト教文化圏(西洋)に住む人々の時間は、一直線に終末へと向かって流れている」という、驚くような時間感覚だった。
豊穣(ほうじょう)の季節を迎えている。生高連の歌に「愛国の情(じょう) 父(ちち)に享(う)け 人類愛を母に享け 光明思想を師にまなび」という詞がある。
かつて禅寺の一室を借りて誌友会を開いていた旧友が、そこの和尚に「霊界」について訊(たず)ねると、「ふすまの向こうの隣の部屋だ」と語っていたそうだ。四十年以上も前の話だが、霊界は〝もっと近い〟というのが真相かもしれない。t
四半世紀近くを経ても、阪神淡路大震災のことが時おり脳裏(のおり)に蘇る。あの朝、私がいた宇治本山では神想観の最中だった。時間の経過とともに次第に阪神地区の犠牲者が明らかになり、最終的な死者は六四〇〇人に達した。

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