信仰随想 「多摩川のほとりにて」(久都間 繁 教化部長)

 過日、機会あって樹木希林さんが主役を務める「あん」(2015年 監督・河瀬直美)という映画を家内と観賞した。あんとは、あんこのアンのことで、樹木さん演じるあんこ作りの名人は、小豆(あずき)を煮るたびに、豆たちが旅してきた月日の物語に耳を傾け、季節の風が運ぶメッセージを聴き、人々が隠し持った心の痛みに、そっと寄り添っていた。
 一雨ごとに、季節の扉(とびら)が開いていく。光や風は、神の慈悲の顕れであり、雨や雪は、仏の喜捨の働きである。それが縦糸、横糸となって織りなす季節の美しさは、神様が地球の生きものたちに捧げられた無心の奉仕の姿のようにも見える。
 ラジオを聴いていたら森山直太朗の「夏の終わり」という歌が流れてきた。たまたま傍らにいた娘が、この歌は、戦死した親しい人に捧げられた挽歌であると話してくれた。切々とした歌声の背後には、一つの時代を生きた人々の物語がひそんでいたのかと得心したのであるが、たとえば次のような一節がある。「夏の終わり 夏の終わりには ただ貴方に会いたくなるの いつかと同じ風吹き抜けるから――」。
 地球温暖化による気候変動が深刻さを増している。豪雨の一方で懸念されるのは、干ばつによる水不足である。かつて奈良の教化部長をしていた北尾己代治講師(故人)が、四十年ほど前に宇治で開催された全国地方講師研修会で〝雨乞い〟について次のようなエピソードを話されたことがある。
 熊谷守一という画家の一日の暮らしを描いた映画「モリのいる場所」という作品を息子と観てきた。彼は晩年の三十年以上に及ぶ画業生活を、木々が鬱蒼と茂る自宅の庭で過ごし、庭に住む野鳥、昆虫、草花を観察し、魚と心を通わせ、庭から外に出る必要性をまったく感じなかったようだ。そんな充足感に充ちた暮らしぶりが、同じ観察者の目線から慈愛をこめて描かれていた。
 三十年以上も前のこと、夜明け前にモーツァルトのピアノ協奏曲24番を聴いているとき、曲想とともに輪廻のいとなみをまざまざとたどっているような、そんな不思議な経験をしたことがある。輪廻とは「衆生が三界六道の迷いの世界に生死を繰り返すこと」(大辞林)と辞書の説明はありきたりだが、そんな無明縁起の説を超えて、輪廻は私たちの使命と深く関係しているように思えてならない。
 生長の家が掲げる〝新しい文明〟とは何か? それは、伝統的な言葉で表現すれば〝地上天国実現〟ということである。この文明は、どこか他所(よそ)からやってくるのではなく、その種(たね)(実)は私たち一人ひとりの内に宿っているのだ。その種のことを神性といい仏性という。それを育てることによってのみ〝新しい文明〟は花開くのである。すなわち〝地上天国実現〟は、私たちの一挙手一投足(いっきょしゅいっとうそく)がその槌音(つちおと)となり、礎(いしずえ)となるのだ。それはよそ事の未来ではなく、私たちが神性・仏性を生きたところにのみ具体化する〝神の子の文明〟なのである。
講習会は教区の運動にとって大きな節目となる行事である。これを通して、新たな〝動き〟があるのは自然なことでもある。去る者を追わず来る者を拒まずという諺(ことわざ)があるが、生長の家では、去る者も神の子、来る者も神の子として拝むのである。その法爾自然(ほうにじねん)の〝動き〟の中から次の運動が形成されていく。
生長の家が実現しようとしている〝新しい文明〟とは何か。それは、「自然の繁栄が人間の繁栄と幸福であるような生き方であり、そんな生き方を支え、拡大する力となる信仰や哲学、科学技術、経済、政治の全体をいいます」と総裁先生が「新年のご挨拶」でお説きくださった〝遠大なビジョン〟のことである。
昨年十月ごろから「真理講話による地区訪問」をさせていただき、二十数会場を廻らせていただいた。その折に「四無量心を行ずる神想観」を皆さんと実修させていただいたが、この祈りについて、若干の所感を書かせていただこうと思う。

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