信仰随想 「多摩川のほとりにて」(久都間 繁 教化部長)

 生長の家の教えに導かれた日々を振り返ってみれば、私たちは諸先達から日時計主義のご指導を頂いてきたお陰で、道を開かれたことに思い当たるのである。日時計主義について、『生命の實相』には「『生長の家』では出来るだけ、輝く喜びの時刻だけを記憶し、語り、想い出す。喜びに言語の再現力、言葉の創造力を応用するのである」と教えていただいている。これは『生長の家』誌創刊号より一貫して変わらぬ生長の家の生き方であり、そこに、人生万般のことに応用できる〝救いの秘訣〟が示されている。
 「神に感謝しても父母に感謝し得ない者は神の心にかなわぬ」とみ教えは説いている。天地の愛が、仏の大慈悲が、父母となって顕れていればこそ、あなたはこの世に生まれてきたのである。あなたが今ここに確実に存在していること、そのことが、まぎれもない神の愛が、父母となって確かに存在していたことを、証ししているのである。
 年末が近づくにつれて、まるで潮が満ちてくるように「時」が豊かな色彩を放ち、その密度を増してくる。道元は「有時」の巻で、「時」とは「有時(実在)」であると説いている。時は生きているのだ。時そのものが、仏性であり神のいのちである。だから、私たちは時とともに生長し、時とともに癒やされ、時とともに物事が成就するのを見るのである。
 過日、機会あって樹木希林さんが主役を務める「あん」(2015年 監督・河瀬直美)という映画を家内と観賞した。あんとは、あんこのアンのことで、樹木さん演じるあんこ作りの名人は、小豆(あずき)を煮るたびに、豆たちが旅してきた月日の物語に耳を傾け、季節の風が運ぶメッセージを聴き、人々が隠し持った心の痛みに、そっと寄り添っていた。
 一雨ごとに、季節の扉(とびら)が開いていく。光や風は、神の慈悲の顕れであり、雨や雪は、仏の喜捨の働きである。それが縦糸、横糸となって織りなす季節の美しさは、神様が地球の生きものたちに捧げられた無心の奉仕の姿のようにも見える。
 ラジオを聴いていたら森山直太朗の「夏の終わり」という歌が流れてきた。たまたま傍らにいた娘が、この歌は、戦死した親しい人に捧げられた挽歌であると話してくれた。切々とした歌声の背後には、一つの時代を生きた人々の物語がひそんでいたのかと得心したのであるが、たとえば次のような一節がある。「夏の終わり 夏の終わりには ただ貴方に会いたくなるの いつかと同じ風吹き抜けるから――」。
 地球温暖化による気候変動が深刻さを増している。豪雨の一方で懸念されるのは、干ばつによる水不足である。かつて奈良の教化部長をしていた北尾己代治講師(故人)が、四十年ほど前に宇治で開催された全国地方講師研修会で〝雨乞い〟について次のようなエピソードを話されたことがある。
 熊谷守一という画家の一日の暮らしを描いた映画「モリのいる場所」という作品を息子と観てきた。彼は晩年の三十年以上に及ぶ画業生活を、木々が鬱蒼と茂る自宅の庭で過ごし、庭に住む野鳥、昆虫、草花を観察し、魚と心を通わせ、庭から外に出る必要性をまったく感じなかったようだ。そんな充足感に充ちた暮らしぶりが、同じ観察者の目線から慈愛をこめて描かれていた。
 三十年以上も前のこと、夜明け前にモーツァルトのピアノ協奏曲24番を聴いているとき、曲想とともに輪廻のいとなみをまざまざとたどっているような、そんな不思議な経験をしたことがある。輪廻とは「衆生が三界六道の迷いの世界に生死を繰り返すこと」(大辞林)と辞書の説明はありきたりだが、そんな無明縁起の説を超えて、輪廻は私たちの使命と深く関係しているように思えてならない。
 生長の家が掲げる〝新しい文明〟とは何か? それは、伝統的な言葉で表現すれば〝地上天国実現〟ということである。この文明は、どこか他所(よそ)からやってくるのではなく、その種(たね)(実)は私たち一人ひとりの内に宿っているのだ。その種のことを神性といい仏性という。それを育てることによってのみ〝新しい文明〟は花開くのである。すなわち〝地上天国実現〟は、私たちの一挙手一投足(いっきょしゅいっとうそく)がその槌音(つちおと)となり、礎(いしずえ)となるのだ。それはよそ事の未来ではなく、私たちが神性・仏性を生きたところにのみ具体化する〝神の子の文明〟なのである。

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