「 永遠の生長の家家族」久都間教化部長の信仰随想


教化部長 久都間 繁

 

  四月から埼玉教区と群馬教区への赴任が決まった。当コラムも連載して早四年、私もこの三月で還暦である。

 

 孔子によると「六十而耳順」(六十にして耳順う)ということだが、耳順とは、生長の家から読み解けば、私たちが巡り合う人や物や事の背後にある観世音菩薩の声に耳を傾け、その声から豊かなメッセージを受け止めることである。人の誕生も死も、現象面から見れば輪廻の深いいとなみの中にあって、先のことは誰にも分からないのであるが、生長の家の日時計主義から観れば、一瞬先は暗ではなく、一瞬先は神の大光明の展開であり、どんな発見が、どんな出逢いが、どんな驚きが待ち受けているか、わくわくドキドキ興味津々の世界へと一変するのだ。それが天地を貫く「観」のチカラ、神想観である。

 

 講習会の推進で〝観の眼〟と〝見の眼〟についてお話しさせていただいた。「観」とは、神想観による実相直視である。皆さんは「講習会祝福名簿」に記した人たちの実相を観じて、折に触れて祝福されていることと思う。だが、相手の実相を祝福するとき、拝む自分と、拝まれる相手(対象)とが分離していたのでは、実相を観たことにはならないのである。それは相対的に現象を見る「見」の眼であり、裁きの眼、差別見の眼であって、「観」ではない。観とは、対象と初めから一つであった〝いのちの世界〟に入ることである。これを実相の世界に入るとも、龍宮海に入るとも云う。つまり相手の〝いのち〟と自分の〝いのち〟とが〝ひとつ〟である大調和の世界に入って大歓喜するのが「観」である。

 

 実相世界は時間・空間を超越している。相手と自分は、実相において一度も離れたことも別れたこともないのだ、初めから愛し合い生かし合い大調和しているのが実相である。それを観じ、感謝し、喜ぶことで、皆さんが祝福した人々は神縁ある〝永遠の生長の家家族〟であったことが拝めてくるのである。それは名簿に記した人だけではなく、一切衆生が、そして天地の万物がそれであったことに気づくのである。光り輝く天地が開けて来るのだ。それが講習会推進運動の最大の目的であり、唯心所現の法則によって、結果は後から必ず追いて来るのである。

 

 さて「耳順」とは、神の無限の愛を聴くことでもある。たとえば自然界は、そのいとなみそのものが観世音菩薩の説法であり、弥陀の誓願不思議を奏でているのだ。それは声なき声として、神想観する者のいのちに直接響いてきて、彼をして絶対他力の〝愛の行者〟たらしめるのである。谷口雅春先生が「心に耳ある者は聴け、心に眼ある者は見よ」とお説きくださったのはこの霊妙なお働きのことであり、それは私たちの内に脈々と流れる神の〝無償の愛〟でもある。この愛は〝ムスビの働き〟となり、あなたを通して天地の万物を調和させる慈悲喜捨のコトバを奏でるのだ。そこに〝生長の家文明〟と後世の人々が呼ぶであろう〝新しい文明〟が湧出するのである。