「 ある日の祈り」久都間教化部長の信仰随想


教化部長 久都間 繁

 

 ある日の祈りの中で、我が子の本当の姿を観ていなかったことに気がついた。拝んでいるつもりで、現象生命の一側面しか観ていなかったのである。善一元、光明一元と教えていただいているにも関わらず、その光を限定して、彼こそが、その〝光源〟であることを忘れていたのだ。

 

 神の光は「無量光、無遍光の智慧」であると聖経に説かれている。それは〝いのち〟の奥底からどこどこまでも射照らす無礙の光である。それを観ていなかったのは、まさに自己限定であり、無意識のうちに〝神の光〟を遮っていることに気がつかなかったのである。内省は、自己の〝意識の眼〟だけで観ていたのでは駄目である。そこで必要となるのが、『生命の實相』や『「正法眼蔵」を読む』等の聖典・聖経を拝読して日々新生することであり、私たちを取り巻く観世音菩薩の声を聴き、その言葉に、心の耳を傾けることである。この〝声なき声〟に耳を傾けるには、先入観を拭い去り、都合を取り払い、これまで習い覚えてきた一切を擲つのである。真理とは、そのような徹底的な捨徳と幼な児の心をもって初めて〝内側から〟扉が開くのである。

 

 蝶となる青虫が黙々とキャベツの葉を食べ続けるように、やがてサナギになってじっと内面へと沈潜するように、さらに内なるものを伸び伸びと開花させて光を放つ羽化を経て、豊かな実りとともに、これまで得てきた経験も実績も名声も投げ打って空手にして郷に還るのである。季節が巡るように、生命はさまざまな経験を通して生長する。

 

「人生で経験することは無駄ではない」と言われているが、それは積み重ねた経験は無駄にならずに役に立つといった人口に膾炙された意味ではない。生長の家からみれば、経験の一つひとつが、あなたとなって現れた宇宙大生命が生きて歩む営みなのである。その都度の経験が、深く尊く、荘厳で掛け替えのないものであり、観世音菩薩はあなたの伴侶であり、友であり、天地の万物となって顕れてい給うのである。

 

 神に抱かれて私たちは生かされている。同時に神は私たちの内にあり、神から離れたことなど一度もないのだ。それは未来永劫変わらざる真理である。私たちの五官や現在意識が神を認識できないのは、神を忘れているのではなく、神を忘れさせていただいているのである。一切の縛りが無いそのことが人間に無限の自由が与えられているということであり、一切の責任を担う力を授けられていればこそ、神を忘れているのである。

 

 しかし、人間は真の自由を、真の自己を探し求める。唯心所現の力は制御し難きものであり、中心帰一なくしては何世にも亘って自己限定と自滅とを繰り返すからである。そのことを悟った魂の内に求道心が生まれ、やがて真の自己と出逢い、内在する無限力の本来の使命を見い出すのだ。それが仏の四無量心であり、神の愛を生きることである。そこから真の生き甲斐である菩薩行が始まるのである。