「 創造する力の継承者」久都間教化部長の信仰随想


教化部長 久都間 繁

 

 

 読書は時間・空間を超えて、古人の魂や人類の叡智と繋がるための扉である。私たちは、真理の探求や意識の拡大を求めて、より深い世界の扉を開こうとするのであるが、それは「意識」が時空を超えて〝繋がっている〟からである。だから誰もが、千年の時を隔てた万葉の歌人たちと心を通わせることが可能であり、二千年前の聖者のコトバに耳を傾け、三千年前の哲学者や仏陀が説いた論理が、時を越えて現代の暗を照らすことができるのである。

 

 本さえあれば、誰でもその叡智と繋がる権利を得たように見えるのであるが、それを開くカギは、お金で買うことはできないし、ネットで検索してみても駄目で、あらゆる条件が整っていても叡智を紐解く人がまれなのは理由がある。それを開くのは、おそらく知識でも経験でも能力でもなく〝共感する心(empathy)〟ではないだろうか。宗教的に云えば、四無量心の働きである。つまり慈悲喜捨の心のカギを回すことによってのみ、聖典や仏典に託された叡智を開くことができるのだ。

 

 これは神への〝祈り〟についても同じことが言える。そのことに私たちが気付き難いのは、自身の五体や過去の習慣に捉われて、人間をただの肉体としてみる唯物思想の術中に陥っているからである。これを『甘露の法雨』は「人間は塵にて造られたりと云う神学なり。近くは、人間は物質にて造られたりと云う近代科学なり」と警鐘を鳴らしている。この渦中から逃れる道が、祈り(神想観)、真理を学び(聖典・聖経読誦)、愛を行ずる三正行である。

 

 私たちは、数多の選択肢の中で生きている。祈りも、読書も、愛行も、ともに時間の使い道を選択することによって得られ、人生は選択したものによって形作られるのであるが、善き選択とは、利己的な価値や慣習を〝捨てる〟ことの中から見出せるのである。仏教ではこれを「捨徳」と呼んでいる。「捨徳」は〝身削ぎ〟であり、一切の執着を解き放ち、生まれ更ることでもある。古諺に「捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」とあるのは、捨てさえすれば、必ず浮かぶ道があることを明示しているのだ。捨てるのは、執着であり、業(悪しき習慣)である。唯心所現、現象(ニセモノ)を實相と取り違えていたのでは永遠に浮かぶ瀬にたどり着くことはない。罪と病と死とのニセモノを吹き払う行事が「捨徳」の実践、即ち「現象無し!」と照見する神想観である。

 

 「唯心所現」の心の力、それは「創世記」における神の天地創造の力であり、人間神の子とは、その創造する力の継承者であることの宣言である。私たちが〝光あれ!〟と「ありがとうございます」のコトバで家族やすべての人や物や事に感謝するだけで、そこに光(智慧・愛・生命)が顕れるとみ教えは説く。これが創造する真のコトバの力であり、光が照射すれば暗は消え去るのだ。私たちは「海魚が水中を遊泳するが如く」人生に〝新価値〟を日に日に足元から創造する。それが神の子・光の子としての光明化運動である。