「實相直視と先祖供養」久都間教化部長の信仰随想


教化部長 久都間 繁

 

 七月の朝、青梅線に揺られているとき、ふいに中島みゆきの「五才の頃」という歌が頭の中で響いてきた。これを初めて聴いたのは十七のころ、ざっと今から四十年以上も前のことだ。そのころ、生長の家に強烈に魅せられていた私は『聖道へ』という谷口雅春先生の論文集をノートに書き写しながら、思索と求道の仕方について学んでいた。そんなとき聴いていたのが中島みゆきやBeatlesの「Let It Be」など数枚のLPで、人生のこと、求道のこと、病気のこと、救われること、そんな観念で一杯だった頭に、曲の一つひとつが深く響き、それは共に歩みを進める同志のように、あるいは輪廻の向こう側から語りかける言葉のように、あと一歩踏み出す静かな勇気を届けてくれた。

 

 人はそれぞれ、そんな無数の出合いに支えられて生きている。姿形はいろいろだが、共通しているのは、そこには観世音菩薩のメッセージが顕れているということだ。それは身近な人となり、書物となり、音楽となり、自然となり、季節となりさまざまな姿で現れる。しかし、来し方をしみじみと顧みなければ、それが顕れていたことすら気付くことはないのである。

 

 『大調和の神示』の一節に、「光が近付くときすべての暗黒は消える」と説かれている。「光」とは、神の愛であり、仏の四無量心のことである。〝光が近付く〟とは〝慈悲の光〟を灯して歩むことであり、それは、罪と病と死との無明を照らす〝愛の光〟が輝くことなのである。

 

 先祖供養祭と講演を兼ねて教区の十一会場を廻らせていただいた。御霊の依り代となる「霊牌」には、ご先祖の名前を書いてお祀りしているが、霊牌に印刷されたマークは、生長の家の徴であり、實相世界を現している。同時にそれは、霊牌に名前を記した御霊の本質が何ものであるかを明示しているのだ。つまり御霊のお一人おひとりは自性円満(實相)なる神なのであり、その実態は大光明を放つ存在であり、現象の背後にあるその實相を直視し、感謝し、喜ぶことが生長の家の先祖供養である。つまり生長の家で〝祀られる〟とは〝實相を拝まれる〟ということである。聖経読誦による供養を受けた御霊が、真理のコトバによって無明が消え、人間・神の子の實相に目覚めるのである。

 

 このことの消息について大調和の神示には、「『真理』が近付く時、すべての『迷い』が消える。『迷い』が消える時、『迷い』の産物なる『罪』と『病』と『死』とは消える」と説かれている。私たちが霊牌を丁重に扱うのは、そのような神の依り代としてであり、招霊させていただくのは神の子、光の子なる御霊を招くのであって、〝穢れ〟や〝迷い〟を招き寄せる余地は微塵もないのである。もし仮にそのような迷いの暗黒が近付いたとしても、真理の光によって暗は消え去るほかはない。生長の家とは、神の「無量光、無遍光の智慧」即ちすべてを射照らす〝光〟のことであり、それはあなたの内(實相)から照り輝く光なのである。