「ひとつのいのち」久都間教化部長の信仰随想


教化部長 久都間 繁

 

 これは道元の『正法眼蔵』に出てくる話だが、ある僧が「古仏心とはなんですか?」と大師に尋ねると、「世界崩壊だ!」と答えたことが紹介されている。崩壊する世界とは、この世のことである。静かに見つめれば、この世に崩壊しないものなど一つもないのである。それは現象世界の相である。私たちの身体も新陳代謝を繰り返しながら絶えず崩壊しているのであり、もしこれを止めれば生命の営みは終わるのである。それは私たちの信仰においても、精神においても、人や物や事との交流においても同じであり、それは生命の自然な姿である。世界崩壊の背後には、生み出してやまぬものがあり、それが道元が説く「古仏心」である。

 

 また道元は、「古仏心は牆壁瓦礫(しょうへきがれき)なり」という。つまり古仏心は、垣根や瓦や石ころであり、それはあらゆる処に在り、美醜を越え、大小を越え、天地いっぱいに充ち満ちているというのだ。つまり古仏心とは宇宙大生命を表す言葉であり、それが「此処に見よ、彼処に見よ」というがごとく一定の現象に固定されてないのは、すべてがその出現であり、すべてが〝ひとつのいのち〟だからである。

 

 菩薩行とは、この〝ひとつのいのち〟を生きることであり、〝ひとつのいのち〟そのものが生きて歩むことである。そこに〝ムスビの働き〟が生じて新価値が出現する。この宇宙は、あらゆる人と時と処が〝ムスビの場〟である。出合いはどこにでもあるのだ。それを結ぶ働きが、住吉大神(塩椎大神)としてのご使命を生きる私たち生長の家である。

 

 三十数年前のこと、そのころ生長の家宇治別格本山総務をされていた楠本加美野先生に、家内と結婚することをご報告に行ったとき、先生から「全托」ということと「大安心」ということをお話いただいたことがあった。生長の家の信仰生活での大切なキーワードとして「全托」という言葉が使われるが、それは天地一切のものと私たちとは〝ひとつのいのち〟である、ということに由来した言葉である。現象界では、私たちを取り巻く外界は無数の他者に分かれ、全然バラバラのように見える。しかし、すべては〝ひとつのいのち〟であり、そこには他者などなく〝ひとつのいのち〟だけがあり、私が生きているように見えるのは〝ひとつのいのち〟が生きているのであり、この〝いのち〟に生かされて生きるのが「全托」の生活である。

 

 つまり全托とは、神様のみ懐に抱かれた大安心の信仰のことである。仏教で、「至道無難(しいどうぶなん)、唯嫌揀択(ゆいけんけんじゃく)」という言葉があるが、これは「道に至るのは難しいことではない。ただ選り好みや好き嫌いをしてはいけないよ」という意味である。これは自我(ego)の都合やモノサシを優先して生きていると、神の智慧や導きから逸れてしまい、要らぬ困難が山積することを伝えている。しかし全托の生活は〝神様はいちばん善いように導いてくださる〟という神想観による神への全幅の信頼であり、宇宙大生命の智慧と愛と生命に導かれて無礙の大道を往くのである。