「真理の火を灯(とも)して」久都間教化部長の信仰随想


教化部長 久都間 繁

 

 極寒から水温むまでの気候の変化が見舞うこの時期、各地では起源も分からぬ古来からの行事がいとなまれるが「節分」などはその代表的なものである。追儺(ついな)や「鬼遣(おにや)らい」として源氏物語にも描かれたことから、この行事は世界中の読者の知ることとなった。追儺とは〝難を追い払う〟ということだが、「難儀は節や、節から芽が出る」と天理教祖は説き、「至道無難(しいどうぶなん)、唯嫌揀択(ゆいけんけんじゃく)」と仏教では云い、難と見える悪現象本来無し、顧みて「天地一切のものと和解せよ」と、生長の家は大調和への道を示している。

 

 その光明の道が開けないように見えるのは、私たちが、損得勘定と合理主義に縛られ〝世の常識〟と見える「業」に転ぜられているからである。その渦中にいる間は、生長の家の教えも、無限供給の真理も、完全なる健康も、遙かな遠い話で終わるほかないのである。

 

 追儺(ついな)とは、古くは古事記に描かれたイザナギノミコトの禊ぎ払いであり、生長の家で行ずる神想観である。これの実修によって、難儀の如く現れているもの(現象)と、本當に在るもの(実相)との違いが次第に明らかとなり、現象に振り回され引きずり回されることで生ずる難儀も、霞の如く消え失せるのである。

 

 救われるとは、握っていたものを〝放つ〟ことである。手を放てばそこに天地が満ちてくるのだ。物事に捉われ苦しむのは、空しき現象に心縛られているからである。ならば、縛りを解けばよい。縛りとは、無いものを有りと執着して心の自由を失うことである。執着は対象や相手にあるのではなく、私たちの心の〝ねばならぬ〟という尺度、つまり心のモノサシから生じているのだ。

 

 そんな尺度に惑わされてはいけない。損や得といった世の常識を超えた「今、ここ」に、神の生命が充ち満ちているのである。その〝いのち〟に直接触れる行事が神想観である。神想観から芽が出て、アイディアが生じ、難を転ずることができるのは、本當に在るもの(即ち神)が顕れるからであり、因果を越える〝いのち〟がそこに湧出するのである。

 

 因果の法則と見えるものも、生長の家から観れば、唯心所現の法則によって生じた現象にすぎないと教えていただいている。真理は「今、ここ」にあるのだ。「今、ここ」に無いものなど神でも、光明でも、救いでもない。それは実在の仮面を被った現象にすぎないのである。

 

 信仰とは、実相を生活化することである。現象世界は、利害あり、迷いあり、死ありと見える世界であり、仏教では六道輪廻を彷徨うとも説かれる場合があるが、生長の家の教えは、その六道の渦中にあるかの如く思えるときでさえも、随所で、真理の火を灯すことができるのである。日時計主義も、プロジェクト型組織(PBS)の活動も〝真理の火〟を灯す実践であり、現代の文明への追儺となるのは、実相(大調和の世界)は、常に「今、ここ」に在るからである。その〝新しい文明〟の火は、あなたが四無量心を行じた足元に灯されるのである。 

 

コメントをお書きください

コメント: 1
  • #1

    大田修司 (水曜日, 20 2月 2019 23:08)

    まさしく共感出来ます。しかしながら教化部長の言わんとするところ。これはイエスキリスト、お釈迦様、また多くの聖者また使命を持った方々が、この世に現れ、迷える衆生に伝えるも、かけらも伝わらず、ことごとく聴く者の自己都合の解釈で、真意、神意は届かなかったこれまでの繰り返しとなります。
    しかし本部長様のように、発信し続けることは、決して無駄には終わりません。

    言われている事は、共感できます。

    しかし、中には、間違った解釈を抱き、真逆方向に突き進む可能性もあります。

    これは、イエス様、お釈迦様の時代にも、多く在ったと認識しております。

    どうか本部長様には、身近な人物が教えを、文字、言葉にとらわれ、誤解、曲解し、

    他の家を破壊するような行為に走らないように、お願いしたいものです。