「幼な児のような信仰」久都間教化部長の信仰随想


教化部長 久都間 繁

 

 地球温暖化による気候変動が深刻さを増している。豪雨の一方で懸念されるのは、干ばつによる水不足である。かつて奈良の教化部長をしていた北尾己代治講師(故人)が、四十年ほど前に宇治で開催された全国地方講師研修会で〝雨乞い〟について次のようなエピソードを話されたことがある。

 

 昭和の頃、長期にわたって日照りが続き、農作物への被害が出始めたことから奈良のある村で雨乞いをすることになった。炎天下の神社に、村人たちは団扇(うちわ)や扇子を片手に参集して御祭が行われたのであるが、そこに一人だけ傘を持ってきた男の子がいたそうである。北尾講師は「結局、本当に神さまを信じていたのはこの子だけだったということだ。この幼な子のような心でなければ神さまと波長が合いませんよ」とご指導されていた。

 

 谷口雅春先生は『新講「甘露の法雨」解釈』の中で、大潮の満潮時に座礁した誌友の輸送船が、全托の祈りによって高潮が生じて救われたエピソードを紹介して、この世界には「物理の法則、精神の法則よりも、尚深遠な法則」があり、それは「神の全能を信じて、神にスーッとお任せする心持ちになって(一心不乱に)祈り続ける」ことで、神様の「愛の法則」が働くのだとお説きくださっている。

 

 聖典を再読すると、時代を越えた福音に随所で出合うのであるが、その鍵を開くのは、ほかでもない〝私たち〟である。ささやかな個人的な苦悩も、大きな公的な問題も、不如意なことがあれば幼な児のように遠慮することなく神に祈るがよい。全托の素直な祈りは必ず神と波長が合い、天地の全てがその実現と解決に向けて働き始めるのである。たとえそれがどんな厄介な問題でも、幼な児の信があれば、天地一切のものは汝の味方である。

 

 信仰とは、無限生長の道である。大切なのは、知らないのに分かったようなふりをしないことである。知らなくて周りから〝無知〟と思われることよりも、知らないのに知っているような顔をしていることほど神性(幼な児の心)を眩(くら)ますことはない。これでは実相が隠蔽(いんぺい)されて、真理を見いだすことも、四無量心を素直に行ずることも難しくなる。知らないことを素直に「知らない」と自覚することから歩むべき道が開ける。それは、イエスが「幼な児のような信仰」と説き、ソクラテスが「無知の知」と説いた〝真理〟を愛する者が歩む生長の本道である。

 

 生長の家の「現象なし」の宣言は、私たちの先入観を木っ端微塵に粉砕し、生命を根底から蘇らす〝新生〟の教えである。そこから未知なる世界が、興味尽きない発見が開けるのだ。もしあなたが生活に、喜びや新鮮味が感じられないとしたら、それは過去の残像にすぎない現象を後生大事に握っているからである。四無量心の中で「捨徳」が最高の徳とされるのは、それだけ肉体の人間は現象に執着し縛られやすい証しでもある。信仰生活は、常に今が百尺竿頭である。一跳する度に内なる仏性が蘇り、躍入する度に、暗を照らす智慧の炬火が点され、この世界が、この地球が、着実に光明化するのである。