「声なき声を聴く」久都間教化部長の信仰随想


教化部長 久都間 繁

  

 熊谷守一という画家の一日の暮らしを描いた映画「モリのいる場所」という作品を息子と観てきた。彼は晩年の三十年以上に及ぶ画業生活を、木々が鬱蒼と茂る自宅の庭で過ごし、庭に住む野鳥、昆虫、草花を観察し、魚と心を通わせ、庭から外に出る必要性をまったく感じなかったようだ。そんな充足感に充ちた暮らしぶりが、同じ観察者の目線から慈愛をこめて描かれていた。

 

 ある日、遠方から守一を訪ねてきた初対面の人物から揮毫を頼まれ、「無一物」と墨書した。守一が好んで書く言葉だそうだ。どんなに広い土地でも、そこにビルを建てれば、他の物を入れる余地はなくなる。が、自然を受け入れた彼の狭小な庭には、さまざまな生命が息づいていた。その生命のいとなみの分だけ宇宙があるのだ。生命とは自然である。自然を見つめることは〝いのち〟を見つめることでもある。よくよく観察していれば、そこから宇宙大のメッセージが聴こえてもこよう。それは大きさのことではなく、生き生きと眼の前に繰り広げられるいのちの不思議であり、背後にある神秘なるものとの興味尽きない対話である。信仰者にとっては、自然の声なき声を聴くことと、神を信じることとは〝ひとつ〟のことなのだということを、あらためて想わされた。信仰者は観察者でもあるのだ。

 

 自然が奏でる〝響き〟それは、天来のメッセージでもある。雨の日には雨だれの音、快晴には鳥たちの鳴き交わす声、雪の日はすべての音を包み込む静寂のなかに、曇天のときは私たちの内面からの微かな声に、心澄ませて耳を傾けているとき、自然は、この世界の背後にある者からのいのちのコトバを届けてくれる。

 

 生長の家では、私たち自身が観世音菩薩であると教えていただいている。仏教で「大慈大悲の観世音菩薩」といわれているように、私たちの内には、慈・悲・喜・捨の四無量心が満ち溢れているのだ。その大慈悲を静かに、そして豊かに解き放って生きることが私たちの生き甲斐であり、この世に生まれてきた目的であり、完全健康を回復するための秘訣でもある。なぜなら、み教えが説く「神の子無限力」とは、無量の慈悲が〝解き放たれる〟ことだからである。

 

 私たちの周りには家族や友人がいて、職場や国や世界があり、宇宙が拡がっているように見える。これらを釈迦は「三界唯心所現」と説いた。つまり神の子(仏の子)にとって世界は〝自心の展開である〟というのが仏教や生長の家が説く教えであり、すべては、心の持ち方一つで一変するのである。直面しているかに見える行き詰まりなど、実はどこにもないのだ。そのような事態が現れたように見えるのは慈悲の心を忘れ、結果(現象)ばかりに心の眼が向けられていたからである。誰の責任でもなく一切は無明の所産なのである。機に応じて慈悲の雨を降らせ、どんな状況にあっても地に愛と豊かさをもたらす慈悲喜捨の無量の心、あなたはその〝神秘な力〟を授けられた運命の主人公であることを忘れてはならないのだ。