「ムスビの働きと地湧の浄土」久都間教化部長の信仰随想


教化部長 久都間 繁

  

  三十年以上も前のこと、夜明け前にモーツァルトのピアノ協奏曲24番を聴いているとき、曲想とともに輪廻のいとなみをまざまざとたどっているような、そんな不思議な経験をしたことがある。輪廻とは「衆生が三界六道の迷いの世界に生死を繰り返すこと」(大辞林)と辞書の説明はありきたりだが、そんな無明縁起の説を超えて、輪廻は私たちの使命と深く関係しているように思えてならない。

 

 使命とは、授けられた〝いのち〟のつとめ、といった意味だが、み教えでは〝いのちは神である〟と教えていただいている。つまり神を生き、仏を生きることが使命である。人間が〝神の子〟であるということは、私たちの生は、そのまま神(仏性)のいのちの展開であり、無駄なものは一つもないのであり、いのちの側(光明面)から観れば、生命が織りなす創造と純粋な輝きとに満ちているのだ。

 

〝ムスビの働き〟は、すべての問題を成就するカギである。ムスビとは、「個」と「個」が交わることであるが、「個」と見えているのは仮の姿であって、私たちの生命の実相は自他を超えた宇宙大生命である。ムスビは自他を越え、利害対立を超えて深く切に交わることで、円満完全な実相が顕現する働きであり、そこに創造の喜びが、楽しいアイディアが、世界を一新させる新価値が生まれるのである。

 

 昔話に「花咲か爺さん」という悲しみと喜びが同居した物語がある。開花に到るまでに愛犬の無残な死があり、犬の墓に植えた樹木の成長と伐採、そして臼の制作と、その臼でついた餅による富の創造があり、貪欲の犠牲となって焼き捨てられた臼の灰を枯れ木にまくことで、天地一新の花咲く春が来る。これら一連のエピソードには、現象への執着を放つ捨徳と〝ムスビの働き〟による新価値の創造とが巧みに織り込まれている。

 

 生命は、死を越えて無限生長を続ける。これが生長の家の久遠生き通しの真理である。死や挫折や失敗があるように見えるのは現象の相(すがた)であり、いつまでもこれに捉われていてはならない。信仰者の〝心の眼〟は常に現象の無明の雲を突き抜けて、生成躍如たる光り輝く実相の大地に立って歩むのである。唯心所現、実相のみを見つめるのが日時計主義である。悪しき現象は過去の迷いが消える姿であり、住吉大神の宇宙浄化の御働きである。そこから実相世界の新価値はいつでもどんな状況からでも芽吹くのである。

 

 「倫理的生活」とは、人間の神性を自覚した尊厳きわまりなき生き方である。それは利己主義(争い、嫉妬、羨望、憤怒、憎悪、焦燥、貪欲、虚飾)という唯物思想に支配された奴隷的な生活とは根本的に異なるのだ。前者は天地一切のものと大道をあゆむ生き方であり、後者は現象に支配された奴隷状態である。生長の家にとって〝枯れ木に花を咲かせる〟のは、遠い昔のお伽話ではない。来し方を振り返り、これまで、どれだけ花を咲かせていただいたことか思い出すがよい。浄土は、空から降り注ぐのではなく、感謝するその足下から滾々(こんこん)と湧出するのだ。