「喜びは、小さければ小さいほど…」(No.4)


 

教化部長 久都間 繁

 

 生長の家の信仰の大きな特徴は、人生の光明面を見る「日時計主義」である。日々の暮らしで見つけた嬉しいこと、楽しいこと、ありがたいことのみに注目して、言葉で綴り、語り、喜ぶことで「三界唯心」の心の法則によって次々と人生に光明が展開する。この生き方は「人生の光明面」を見ることが基本だが、大きな悦びだけを待ち構えていたのでは、あなたの日時計は「時」を刻むことはできない。「神は細部に宿る」と云われているように〝小さな喜び〟に注目することこそが、この生き方の秘訣である。神から視れば喜びは〝小さければ小さいほどよい!〟のだ。

 

 私たちは人生で獲得した、それぞれの「ものさし」という〝我執〟を持っている。小さな喜びが周りに無数に湧出していても、あなたの「ものさし」の基準に当てはまらなければ、そこは真っ暗闇の茫漠たる砂漠に見えるかもしれない。ところが、「喜びは、小さければ小さいほどよい」ということになれば、「ものさし」は彼方に吹っ飛び、観える世界が一挙に広がる。すると、雲が晴れた夜空に、無限の星くずや月が初めから輝いていたように、到るところに真象があらわれ、あなたを迎え入れるのだ。

 

 かつて、私が聖典の拝読に真剣に取り組み始めたころ、亡き恩師から「行間を読め」「文字間に宇宙が宿る」と教えていただいたことがある。今になって想えば、神は書かれた文字や聖典にはなく、行間や、文字間に宿ることを師は暗示してくれていたのだ。生活にも、同じく〝行間〟がある。私たちが、お金やモノや地位などの現象に、直接「幸福」を求めている間は、永遠に神(真の豊かさ)を吾がものとすることはできない。しかし、今日の日を無事に迎えられたことに、足下に咲く草花の露の光に、家族との親しい語らいに、あたりまえと見えることの中にこそ〝行間〟からのメッセージ、つまり観世音菩薩の誓願不思議(無限の愛)が鳴り響いているのである。

 

 さて、生芸連委員長の布井剛講師によると、スケッチは対象の印象や記憶に頼って描いたのでは次第に実物と懸け離れたものになるが、対象をよく観察して写生することで、正確な絵が描けるという。この方法は日時計主義とも重なる。つまり相手を、印象や先入観で見るのを止めて(現象無し)、美点(実相)をよく観て喜び、綴ることで、「観たものが具象化する」心の法則によって、夫が、妻が、姑が、嫁が、息子が娘が孫が、生まれ更った相で立ち現れる。神の奇蹟は特別なものではない。あなたが実相を直視して喜ぶ日時計主義のカギを回せば、今、ここに湧出するのだ。それは、これから造り出すのではない。私たちが「小さな喜び」を見出すように努めるだけで、その小さな光と見えたものが、実は比較を絶した宇宙に遍く充ちる光(宇宙大生命)であることが観えてくるのだ。