「神に遠慮しないこと」 (No.22)


教化部長 久都間 繁

 

 昨年十月ごろから「真理講話による地区訪問」をさせていただき、二十数会場を廻らせていただいた。その折に「四無量心を行ずる神想観」を皆さんと実修させていただいたが、この祈りについて、若干の所感を書かせていただこうと思う。

 

 「四無量心を行ずる」とは、いったい何ものが「行じる」と皆さんは思われるだろうか。もし「私」が行じているのだとすれば、この祈りは、その力も効力も「私」という〝自我〟の及ぼす範囲が限界となることだろう。しかし四無量心の「無量」とは、量が無い即ち〝無限〟を意味する言葉である。ということは、この祈りは「私」が行じているのではなく、私たちに内在する仏性が行じているのであって、「私」の入る余地はないのである。別の言い方をすれば〝私は無い〟のであり、私と思わせていただいているものの本質は、まごうことなき仏性であって、これまで一度も仏から離れたことなどないのである。その仏性が行ずるのが四無量心であり、行ずれば行ずるほど仏(実相)に目覚め自性円満の自覚が深まるのである。

 

 では、仏の慈・悲・喜・捨の及ぶ範囲はどこまでだろうか。これもまた無量であり、その及ばざるところは無いのである。私たちは何の疑いもなく人間知でさまざまな限界を設けていることに気づかずにいるのであるが、四無量心の及ぶところは〝宇宙隈無(くまな)く〟ということにほかならない。

 仏の四無量心とは無限大の抜苦与楽(ばっくよらく)の働きであり、「苦しみを除き」と云えば苦しみは除かれるのであり、「楽を与え」と云えば楽は与えられるのである。その仏の〝無量の慈悲〟を私心で見かぎってはならないのだ。私たちの運動は信仰運動なのであり、その運動を人間知によって限定するところに神性隠蔽(しんせいいんぺい)が生ずる。

 

 つまり四無量心を行ずるとは〝限定無し〟である。限定なしとは「遠慮してはいけない」ということである。現象的な価値を基準にして遠慮することは、一見奥ゆかしいようでいて実は神性隠蔽となり、仏性(神)を自我によってツツミ陰(かく)す(罪)ことになり、そこからあらゆる禍事(まがごと)めいたものが生じ、遂に今生(こんじょう)において神性を顕現させる機を失うことにもなる。その最大のものは「神に遠慮すること」である。生長の家を信仰していてこれほど勿体(もったい)ないことはない。遠慮なく神に願い、遠慮なく神に委(ゆだ)ね、どんな小さなことでも、どんなに私的で細やかなことでも、またどんなに遠大なことでも〝遠慮なく〟神に願い委ね、全托するのだ。その最たるものが「四無量心を行ずる神想観」である。

 

 講習会の推進も、へたな遠慮をしていてはいけない。これは神と共に行う純粋な宗教行である。これの推進を機に、私たちのあらゆる願いを、諦(あきら)めかけていた夢を、叶(かな)わないと思い込んでいた心願の一切を、祝福の祈りと共に成就する。それが自他ともに救われる生長の家の信仰であり、講習会推進の真の目的であり、神の子としての使命、すなわち一筋の光の道を踏み往(ゆ)くことである。