「聖なる中心を生きる」(No.19)


教化部長 久都間 繁

 

 豊穣(ほうじょう)の季節を迎えている。生高連の歌に「愛国の情(じょう) 父(ちち)に享(う)け 人類愛を母に享け 光明思想を師にまなび」という詞がある。生長の家の信仰を谷口雅春先生が讃えた歌詞であるが、「愛国の情」を享け、あるいは「人類愛」だけを享けるのでなく、「光明思想を師にまなび」得てこそ生長の家の信仰となるのだ。み教えと出合ったご縁、それは病苦や家庭苦や経済苦を解決するために入信された方も多かろう。しかしこの神縁があればこそ、私たちは聖なる大使命に目覚め、神の運動に参画できたのである。

 

 個人救済の門から入って愛行に加わることで、私たちは人類愛に目覚め、菩薩として運動に身を挺(てい)する中から光明思想に眼(まなこ)開かれ、唯心実相の深奥を、真の叡知を学ぶことができた。このことは、たとえば愛国心だけでは他国や他人との闘争が消えず、人類愛だけでは具体的な結実は見えず、光明思想だけでも小乗の域を出ない。これらをムスビ、そして深く展開するところに三正行の重要性がある。

 

 内外の情勢が揺れ動いているとき、果たして自分は、いかなる中心に帰一して運動を展開しているのであるか、ということをよくよく吟味(ぎんみ)して事に臨みたいものである。中心とは、生長の家の運動においては、「生長の家大神――総裁・副総裁――御教(みおしえ)」である。これを不動の中心として、信仰と運動とが相矛盾(むじゅん)することなく喜びと感謝をもって生活するところに〝無の門関〟の透過があり、信徒行持要目にある「常に自我を死に切るべし」の実践があり、人間神の子の信仰から「神の子・人間」の信仰へと飛躍するのである。

 

 もしここに矛盾や、曖昧(あいまい)さを抱えているとすれば、それは誰の責任でもない、己(おのれ)の信仰が、現象に連れ去られているのである。ここをいい加減にして通り過ぎていたのでは、どんなに立派な大義名分(めいぶん)の旗を掲げたとしても、それは信仰の形骸化(けいがいか)であり、苦悩の因や禍根(かこん)を残すことにもなろう。中心を眩(くら)ましていては、いつまでも救いの機は訪れない。中心帰一とは、自己と神との同一性(実相)を見出して生きることである。天皇というも日本国実相顕現というも、光明思想と無関係の信仰など、生長の家にはないのである。

 

 中心とは、自己の根源であり、光明の本源であり、聖なるものである。人間神の子の教えは、この聖なる中心を自ら生きることである。それは生活面では神意に添った美しい倫理的な生き方となり、信仰面では日々の神想観となり、聖典・聖経の読誦となり、隣人への愛行となる。「君民同治の神示」には「天孫降臨(てんそんこうりん)とは人間自身すなはち民自身が天孫であり、神の子である自覚の反映にほかならない。かく天皇の神聖性は人民自身の神聖性より反映するのである」と説かれている。国際平和信仰運動そして日本国実相顕現とは、私たちが人間・神の子を悦んで生活する日時計主義の生き方から具体化するのだ。楽々と「ただ実相(そのまま)であれ」ばよいのである。