「現(うつ)し身の使命について」(No.18)


教化部長 久都間 繁

 

 かつて禅寺の一室を借りて誌友会を開いていた旧友が、そこの和尚に「霊界」について訊(たず)ねると、「ふすまの向こうの隣の部屋だ」と語っていたそうだ。四十年以上も前の話だが、霊界は〝もっと近い〟というのが真相かもしれない。なぜなら、こちらから向こう(霊界)を覗くことはめったにないが、向こう側からは、どうやらその気になりさえすれば、いつでもこの世(現世)のことは〝お見通し〟と思われるからである。

 

 今年の六月、恩師の霊前にお参りするため、故人宅を訪問してご家族の皆さんと会食する機会があった。思い出話に花を咲かせ、これまでの神慮や近況などを語り合っているとき、突然「ガチャン!」と、仏壇付近で大きな音が鳴った。一瞬なにが起こったのか分からなかったが、よくよく見ると、数時間前にお線香をあげてチーンと鳴らした台座のリンが、誰も触れていないのに、跳ねて、飛んで床に鎮座(ちんざ)しているではないか――その場にいた皆が来訪を察し、タイミングといい登場の仕方といい〝なんて先生らしい!〟と、皆で大笑いしたのであるが、さては、「吾々の話をずって聴いていらっしゃったのか」と思った。

 

 さて、死を境(さかい)に住む世界を異(こと)にするとは、いったいどういうことか。死とは、現界の生活の一切を捨て、新世界に誕生するという不思議な経験を経ることであるが、不思議と見えるのは、現界に住む私たちが全容を見通す機会が希(まれ)だからであろう。しかし「観」の眼で観れば、現世も霊界も念の世界であり、これら両界の〝救い〟の原理もまた同様である。

 

 「念」を調律するための行事として、生長の家では神想観を教えていただいている。これは宇宙大生命の慈悲の現れである生長の家大神が直接導き給うから、これほど確かな「行」はない。『生命の實相』劈頭(へきとう)にある黙示録に、久遠のキリストの言葉として「生と陰府(よみ)との鍵(カギ)をもてり」と記されているのは、顕幽(けんゆう)両界の一切を司る本源者を意味している。念の浄化とは、顕幽を彷徨(さまよ)う境涯から、その本源者(神=光)に帰ることにほかならない。

 

 神の子の境涯を生長の家では「聖使命」と讃えている。それは、「神より出でたる光」として〝聖〟なる使命を生きることである。大神が守護する無限愛のネットワークの恵みの体系、それが現世における「聖使命会」の制度となって現れている。それは神の慈愛の流れが顕現した相(すがた)であり、その最先端の〝光り〟が私たち聖使命菩薩である。

 

 聖典には、伝道は利己的動機が含まれない〝純粋な献身(けんしん)〟が要求される、と説かれている。今できる〝純粋な献身〟の中から、実相世界さながらの仏国土が現成する。この世界で、このご縁に、生きとし生けるもののために「献身できる」ということが、現世に、私たちが〝現(うつ)し身〟としての肉体を授けられている真の理由であり、仏の四無量心を生きる、私たちの聖なる使命であることを、恩師の奇瑞(きずい)に接して、あらためて想うのである。