「霊界浄化について」(No.17)


教化部長 久都間 繁

 

 四半世紀近くを経ても、阪神淡路大震災のことが時おり脳裏(のおり)に蘇る。あの朝、私がいた宇治本山では神想観の最中だった。時間の経過とともに次第に阪神地区の犠牲者が明らかになり、最終的な死者は六四〇〇人に達した。十六年後の東日本大震災では二万人弱の方が犠牲となり、福島第一原発事故に到っては、未だ収束の目処が立っていない。二〇一四年、宇治に「自然災害物故者慰霊塔」が建立されたが、現象の背後にある、問題の核心部分の解決は、まだまだこれからである。

 

 龍宮住吉霊宮(総本山)や宝蔵神社(宇治本山)を谷口雅春先生が建立された主用な目的は〝霊界浄化〟にある。現在蔓延(まんえん)する、物質的な繁栄に偏重した唯物思想は、その背後に霊界浄化という大きなテーマがあることを示している。霊界は物質を越えた世界であるが、なぜ唯物思想と霊界とが深く関係しているのかといえば、霊界に住む多くの御霊たちが、未だ人間神の子の真理を知らざるが故に、現象に執着し、それに現世の人々が付和雷同しているのである。現象は心のカゲに過ぎないのであるが、それを実在と思い違え、恵みのすべては神のみから来るにもかかわらず、それを忘却したところに生ずるのが、唯物思想であり、人やモノへの執着であり、利己主義である。この無明を吹き払い、人間・神の子の自由な境涯へと導くことが霊界浄化であり、その使命を担っているのが生長の家である。

 

 身近なところでは、隣人との対立や葛藤(かっとう)なども、顕幽両界の執着が深く関係している場合がある。肥大化した欲望を制御することもできず、身近な者や人間同士が憎悪し、奪い合うことほど悲しいことはない。その最大の犠牲者が〝自然界〟である。この桎梏(しっこく)とも見える苦界に、愛の光を灯し、信仰の慈雨を注ぎ、大調和の世界を開くのが生長の家の運動であり、菩薩としての私たちのお役目である。

 

 祝福とは、生きている者と霊界の諸霊ともに成仏させることである。成仏とは、これから成るのではなく、すでに仏のいのちは鳴り成り響いているのだ。その実相を観じ歓喜の光明を灯すのが神想観である。潜在意識は、心理学から見た不可視の世界の消息であり、霊界は、宗教やスピリチュアリズムから見た消息である。潜在意識も霊界も、ともに一つの〝いのちの世界〟である。その中心にいるのがあなたである。あなた一人の信仰の悦びが、九族を救う大光明となるのである。

 

 対立している人が現れているように見える場合がある。これらは過去の迷いが消えていく姿である。だから腹立てたり、対立したり、ねじ伏せようと力んではならない。それは無明が無明と相撲(すもう)をとるようなもので、いつまでも問題は追いかけてくる。こんな時こそ、「祝福」の出番である。その祈りの一つが「四無量心を行ずる神想観」であり、霊前での先祖供養である。あなたの祈りが、霊界と現界とを浄め、人類から鉱物に到るまで、天地の万物を救う。それが、「人間は神の子である」というコトバの真意である。