「絶対他力について」(No.16)


教化部長 久都間 繁

 

 生長の家の唯神実相の教えは、「絶対他力の信仰」と表現される場合がある。絶対他力とは、神に無条件に生かされ、愛され、赦(ゆる)されている、ということである。天地の万物は神の生命(いのち)の現れである、とみ教えは説く。私たちが使う道具も、それを持つ指も五体も、眼も耳も口も、頂く水も食物も、大地も風も太陽も、すべては神からの恵みだったと、天地一切のものに感謝する教えが生長の家である。

 

 では、なぜ普段、私たちはそのことを忘れていることが多いのだろうか。たとえば「人間は神の子だ」と自覚していたとしても、知らず知らずのうちに心が、現象(物質)に支配され、いつしか現象に振り回されていたのでは、すでに与えられている沢山(たくさん)の恵みが見えなくなり、取り越し苦労、持ち越し苦労の境涯に彷徨(さまよ)うことにもなる。そんな鎖された状態は、一切の〝執着〟を捨て去らない限り、いつまでも私たちの人生を縛(しば)ることにもなろう。

 

 仏の四無量心の一つである「捨徳」の実践は、人やモノへの執着を捨て去るだけではなく、これまでの自分の考え方・ものの見方という後生大事にしてきた心のモノサシをも捨て去ることである。天理教祖は、無明をホコリに喩(たと)えて曰(いわ)く、「惜しい欲しい可愛いと、欲と傲慢(ごうまん)、これがホコリや」。かわいい自分を捨て去らなければ、神の御心を、本当は観じることも、味わうこともできないのである。神意が、自分を捨てずして得られるものならば、それは自分の都合の良いことだけを切り取って〝神意〟と呼び、神の御心でもなんでもない現象のカケラを追い求めているだけかもしれない。それでは、魂の渇(かわ)きは永遠に癒(い)えないだろう。神意とは、無条件に天地の万物を生かし給う叡智であり、大慈悲である。それは自分や人間だけに都合の良い、などというような偏(かたよ)ったものではない。

 

 私たちは植物によって「食」を与えられ、大地によって生活の「場」を与えられ、太陽の恵みは、私たちを取り巻く自然界となって現れている。天地万物ことごとく神の愛なのである。捨徳とは、現象の自分、ニセモノの自分を捨て去ることで、天地に満ち給う神の愛(純粋贈与)と出合うことである。そこから初めて、み教えが説くところの自然流通(じねんるつう)(無限供給)の世界が開けてくる。

 

 絶対他力とは、神の絶対愛に生かされているということである。それは今ここに〝無条件に〟生かされ、赦されている事実を見出すことである。これから神の愛に満たされるのではなく、すでに十全に満ち溢れ、成就しているのが実相である。コトバは神であるとは、私たちの語る善きコトバこそが地上(現象世界)に、天国浄土を自在に生み出す権能(ちから)をもっている、ということである。それは他でもない、コトバの使途(しと)の一切は、神の子であるあなたに委(ゆだ)ねられているのである。それが〝人間は運命の主人公である〟ことの理由であり、神示に説かれた「今すべての病人は起つことが出来る」ことの所以(ゆえん)である。