「内なる神性」(No.15)


教化部長 久都間 繁

 

 〝内なる神性〟とは、私たちの本質であり、実相のことである。これを仏教では仏性という。かつて同教では「一切衆生悉(ことごと)くのものに仏性が宿る」と解釈していたが、道元によって「一切衆生悉くが仏性そのものである」と喝破(かっぱ)され、釈尊の教えが世界に蘇った。教化部で毎月開催している真理勉強会(『「正法眼蔵」を読む』)は、これに推参して、道元禅師と谷口清超先生のライフワークから、教えの神髄を昧読して、私たちの生活に蘇らせる試みである。

 

〝内なる神性〟とは、「神は外にはない!」ということを示すメッセージだ。外に在(あ)ると思っている間は、永遠に、内に〝心の眼〟を向けることはない。が、「外ではない」ことがハッキリすれば初めて心の眼が内に向かう。そこに時空を超えた宇宙大生命(実相)を発見すれば、内や外などという現象は元々無かったことが分かる。

 

また〝内なる神性〟とは、私たちの内に在るキリストである。イエスを内に見出すことこそが、真の意味でのキリストの復活である。仮に、彼が、世界のどこかに復活したように見えたとしても、「吾と汝となんの関わりあらんや」とあなたは一蹴しなければならない。なぜなら、あなたを離れてキリストなど何処にも無いからである。

 

 釈尊は生まれて数日にして「天上天下唯我独尊」と宜り給うたが、それは〝内なる神性〟の誕生を祝す宣言である。釈迦が生まれたのは三千年前の過去ではなく、私たちの内に、常に誕生し給うている。その誕生仏を祝し、キリストの復活を祝う行事が、神想観である。祈りの坐が結ばれるところ、過去・現在・未来の一切が成就し、すべての行為は愛行となる。

〝内なる神性〟は、私たちを導き給う「吾が内なる神」である。『堅信歌』では、「吾が護り常に全し」と歌われている。それ(神)は「常に在る」が故に、守ったり守らなかったり、忘れたり見失ったりすることは決して無いのである。

 

 ある日の「四無量心を行ずる神想観」の折〝すべては神が為し給う〟と、内なる声がささやくのが聴こえた。一切衆生の苦しみを除くことも、悩みを和らげることも、楽を与えることも、喜びを与えることも、すべては神が為し給うのであり、私が為すのではなかったのである。私が為すのであれば、重荷にも感じ、苦痛とも感じ、成就するか否かも気になるのであるが、四無量心は神が、仏が、大生命が行じ給う大慈悲であり、それは地上天国実現に直結する荘厳な菩薩行なのであり、実修すればするほど、自他ともに楽になり、抜苦与楽の実践となり、仏のいのちが顕現するのである。

 

 すなわち抜苦与楽とは、〝本来の相(すがた)に帰る〟ことにほかならない。私たちの本来相は、神性・仏性であるから、ここに帰ることは時空を超えて渾(すべ)てに充ち給うことである。つまり宇宙に満ちる人間・神の子の実相(宇宙大生命)に帰ることこそが「楽」ということであり同時に「喜び」であり、中心帰一の醍醐味であり、神の子・人間の復活のときなのである。