「天に満ち、地に満ちて」(No.14)


教化部長 久都間 繁

 

 「天に満ち、地に満ちて」とは、祝福手帳の表紙に紹介した言葉である。「天」は神の遍満(へんまん)を現し、「地」は祈りによって成就する世界を現す。つまりこの言葉は、神想観の中身を語っているのである。イエスが「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」(マタイ六-十)と祈ったと聖書に記されているが、「天」はすでに成就している実相世界のことであり、「地」は祈りによって成就する三界唯心の世界のことである。

 

 私たちが〝願い〟の成就を祈るとき、み教えは「すでに受けたりと信ぜよ」と教えている。その意味は、実相世界に既に成就している完全円満な相(すがた)を深々と観じ感謝することが祈りを叶えるカギとなる、ということだ。つまり「地」は現象であり〝心のカゲ〟であるから、「天」(実相)を豊かに観じて喜び感謝していれば、おのずから全てが成就するのが心の法則である。だから現象を変えようと力む必要はない。不完全と見える現象を相手にして、それを〝変えよう〟と、不完全を心に認めていたのでは、その印象が種(たね)蒔(ま)かれて具現する。それでは、いつまでも地を成就することはできないし、生長の家はそんな中途段階の信仰を説いているのではない。

 

 願いを叶えるポイントは、くどいようだが「みこころの天になる」世界をいかに味わい、喜び、感謝するか、ということに尽きる。その前提として、神想観を通して「現象なし」を徹底し、五蘊皆空(ごうんかいくう)と照見することから天地が開けるのである。それは「創世記」第一章にある「神光あれと言(いい)たまひければ光ありき」というコトバの実践である。「光あれ」とは、照り輝く「みこころの天になる」世界がコトバによって鳴り響くことであり、やがて実相の光(智慧・愛・生命)は、夜が明けるように地に満ちてくるのである。

 

 総裁先生は、「めんどくさいが世界を救う」とお説きくださっている。五月上旬の連休中、わが家でも昨年来の懸案だった畑に息子と手を入れ、家の内外に置かれた大物小物の片付けに家内と励んだおかげで、随分と過ごしやすくなった。生活を離れて、真理の実践はないし、活かすべきものを生かし、捨てるべきものは捨て、切るべきものを切る営みの中に、調和と秩序と浄土があらわれる。つまり「めんどくさい」ことの内実は、人を物を事を、活かすことにほかならない。それは、光明化運動そのものの実践なのである。豊かさや、美や、喜びは、一見ムダと思える、手間ヒマを掛けなければならないことを通してのみ現れるのであり、畑も家も人も同じである。

 

 また、「地に満ちて」とは、一切のものに〝行き届く〟ことであり、行き届くことによって無明(まよい)は消えるのである。それを別の角度から表現すれば、手間ヒマを惜しまず、勇気を出して、新たな知見や発見から謙虚に「学ぶ」ということでもある。正しく学び知ることによってのみ、私たちの智慧は、暗を照らす力を得て光となる。信仰の真の喜びとは、その光を生きることにほかならないのである。