「久遠の青春を」(No.13)


教化部長 久都間 繁

 

 西国分寺の史跡通りに咲く桜を見て、教区に赴任してからの日々が脳裏をめぐった。振り返れば、多くの皆さんと出会い、雲のようにアイディアが生まれ、会議での語らいの中から、いくつものプランが実現していった。そして、見えないところでどれほど支えられ、活かされ、導いていただいたことだろう。それもこの一年という日々があればこそのムスビ(神縁)であり、実りであることを実感している。

 

 先般、地域で行われた「熟年の集い」に指導に行った折り、参加者から「若さを重ねて、歳を重ねる」という意味の言葉を紹介していただいた。ここでいう「若さ」とは、魂を〝あらわ〟にして生きる、とでもいった意味ではないかと思われた。その〝若さ〟とは年齢のことではなく、生きている限り誰の内にも内在している〝いのち〟のことである。これを植物にたとえれば、新緑の季節には樹齢何百年の大木でも、その枝の先端の部分まで隈(くま)無く芽吹き、花の季節になれば細かな枝の先々まで、可憐(かれん)な花を咲かせているではないか。いのちとは、たとえ数百年、数千年を経ても、常に瑞々(みずみず)しく、柔らかで、豊かな感受性にあふれているのだ。私たちは、いのちそのものを包み隠さず〝あらわ〟にして生きるとき、常に若々しく、驚きに満ちて、新たなものとの関わりに興味と悦びを感じることだろう。この生命そのままの相(すがた)を、楽に、自由に、伸び伸びと生きるのが生長の家の人間・神の子の生活である。

 

 また、「若さを重ねる」とは、新発見の連続ということである。それは、日々訪れるこの世界の不思議から、素直に学び、驚き続けるところに見出す人生の最良の宝物である。生長の家の観行、誦行、愛行の中身とは、この神秘の扉をコツコツと叩き続けることにほかならない。これを怠(おこた)るところに倦怠(けんたい)や衰退(すいたい)が感じられるように見えるのであるが、これは魂が〝あらわ〟になっていないだけのことであり、年齢とは無関係である。生長の家の教えを生きる者にとっては、日々の当たり前と見えていることの背後に、久遠の青春の源泉がいつも湧出しているのだ。

 

 私たちは、「歳を重ねる」ほどに、いよいよ神の嬰児(みどりご)として蘇(よみがえ)るのである。イエスがベツレヘムの場末の馬小屋にあった飼い葉桶(ばおけ)の馬槽(まぶね)に生まれたように、また聖徳太子が厩(うまや)の前で生まれたという伝説も、それはたとえどのような場所でも、またどんなに劣悪な状況でも、条件を整えてからではなく、いつでもどこでも神の子のいのちは無原罪の相(すがた)で光輝燦然(こうきさんぜん)と誕生する、ということの象徴である。

 

 み教えは、「常に今が吉日である」と説く。思い立ったときが、ものごとを始める最良のとき。善きことをはじめるのは、常に「今」である。いま起(た)とう、そして善きことを今はじよう。そこから久遠生命の扉が開かれるのである。