「無条件に赤裸々に」(No.11)


教化部長 久都間 繁

 

 自然と身近に暮らしていた古代の人々は、この冬枯れた極寒に咲く花や木々の梢(こづえ)のほのかな膨(ふく)らみを愛でつつ、天地を取り巻く大自然といのちを通わせていたことだろう。立春は春の到来を告げる季語だが、季語から甦る内的な感覚は、自然とともに生きていた人々からの密かな伝言のようにも思えるのである。

 

 古くから伝わる言葉には、古人の心ばえが現れている。その心ばえを読み取ることができれば、時を越えて心を通わすこともできるのだが、心しなければならないことは、今日の尺度を持って彼らの心ばえを推し量っていては、何も見えてこないし、心通わせることもできないのは、世代を越えた子や孫との会話と同じであろう。私たちは心の耳を澄ませて、自然の声に、樹の声に、子どもの声に、風の音や水の音に心寄せるとき、今まで聞くことは出来ないと思っていた声が、向こうから静かに語りかけてくるのを聴くのである。

 

 道元は『正法眼蔵』の中で、「冬の春となるとおもはず、春の夏になるといはぬなり」(現成公案)と説いている。原因があればこそ結果が現れるというのが「原因結果の法則」であるが、道元が伝えていることは現象上の原因と見えているもののことではなく、天地を貫く「真因」(実相)のことである。

 

 聖経に、「真の『生命』は物質に非ず、肉体に非ず」と教えていただいている。非実在なるものに実在の衣を着せて真因と見誤ってはならない。目覚めているのに夢を見ることを無明というが、現象は明暗混交の無明縁起の世界である。これを仏教では大夢といい、イエス・キリストは「されど見ゆという罪は残れり」と説いた。現れているもの(現象)を前提に、原因結果の法則があり悪因・悪業があるなどと解釈してはならない。真の原因(真因)となるのは完全円満な神のみなのである。

 

 諺(ことわざ)に「捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という言葉があるが、これは「ニセモノを捨て去る」ということであり、捨徳の実践である。捨てるとは〝無条件になる〟ことでもある。現象に不完全な姿を認めてこれを変えるのではなく、そこにそのまま神のいのち、仏のいのちをただただ拝むのである。これを〝絶対感謝〟という。悪現象と見えていたものは無明の消え去る浄めの相(すがた)であり、その背後に〝春の兆し〟(実相)をありありと観じて喜び生きるのが日時計主義の生活だ。

 

 さて、2月26日の「教育フォーラム」は「子どもは奇蹟のカタマリだ!」のテーマで開催する。子どもも大人も、そこに神を拝めば神が顕れ、仏を拝めば仏が現れる。現象を見ていれば不自由な肉体や不完全な人格しか見えないかもしれないが、こちらの都合を去り、我見の尺度をかな繰(ぐ)り捨てて、無条件の赤裸々(せきらら)になって絶対感謝すれば、そこに奇蹟そのものが、はじめのはじめから在ったことが分かるのである。