「心の耳を澄ませてみれば」(No.6)


教化部長 久都間 繁

 

 七月中旬、八王子での講習会決起大会に向かうため、自宅から青梅駅までの坂道を急ぎ足で歩いていた。清寶院(せいほういん)という寺の前まで来ると、大きな亀(かめ)が同じ方向を黙々と歩いているではないか。十年以上同じ道を通勤しているが、こんな光景は初めてだった。先を急いでいたので、彼を横目で見ながら追い越したものの、なぜか気になり振り返ると、くだんの亀も、歩みを止め、細い目でじっと私を見つめながら、「…おまえさん、そんなに急いで、いったいどこへ行きなさる」―そんなことを語りかけているように見えるではないか。ウサギとカメの話が脳裏をよぎった。

 

 観世音菩薩は「あらゆる姿とあらわれて、私たちに救いの説法を宣示したまう」と教えていただいている。亀がメッセージを投げかけて今さら何の不思議があろう。電車に乗り、ノートを広げると、これから向かう講習会決起大会について、次の所感を書きはじめた。

 

 「決起」とは、そこに何ものが「起(た)つ」のか、ということが重要である。「肉体人間」が立つのか、それとも「神の子・人間」が起つのか。そこを明確にすることで、講習会推進に、神の子の

光りの運動として画竜点睛(がりょうてんせい)の燈(ひ)が灯ともる。「肉体人間」は諸行無常の住人であり、永遠に「起つ」場所を持たない。しかし霊的実在なる人間、神の子なる実相人間は、はじめから起っているのだ。「起つ」とは、物理的に立つのではない。それは神の理念のことであり、理念は常に夢をはぐくみ、喜びと内部理想を創造し、それを実現する。

 

―ここまで綴(つづ)って、電車は立川に到着。その後、半月ほどで教区内の十会場を回り、総連での決起大会は滞りなく終了。九月、地区連訪問に向かっていると、再び脳裏に、あの亀の姿がよみがえってきた。電車でノートを開いて次のことを綴り始めた。

 

 私たちが起つべき場所は、中心帰一の世界である。中心とは、世界平和の祈りで祈念する実相世界であり、天之御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)の本源世界である。そこに「起つ」とは、仏の四無量心に、神の愛に、生かされて生きることである。天皇陛下の大御心に生かされることである。「初発心(しょほっしん)」という言葉があるが、これは「自分が」発するのではない。それは「中心(宇宙大生命)」が発する御心(光)に生かされることであり、ここに起っての発心が、過去・現在・未来を無礙(むげ)の光で照らし、すべての物事を因縁を、円満に成就する。それが、神の光の展開である生長の家の光明化運動である。

 

 中心帰一とは、日々めぐり来る一つひとつのことを忽(ゆるが)せにせず、御心(慈悲)を行ずることである。その一つひとつのことから実相世界が花開いてくる。国際平和信仰運動とは、私たちの最も身近な一つひとつのことに、浄土を現成(げんじょう)する運動であり、神の愛を生きることの地道な積み重ねなのである―ここまで書いて目的の駅に着いた。観世音菩薩は、あらゆる姿と現れて、真理の説法を奏(かな)でている。「心に耳ある者は聴くべし、心に眼ある者は見るべし」講習会推進も大詰めのとき、心の耳を澄ませてみよう。