「仏心について」(No.7)


教化部長 久都間 繁

 

 「実にこの世においては、怨(うら)みに報(むく)いるに怨みを以(も)てしたならば、ついに怨みのやむことが無い。怨みをすててこそやむ。これは永遠の真理である」(発句経)

 

 「怨み」とは、私たちの無明(まよい)が掴(つか)んだ「執着」のことである。執着を解き、掴みを放つことから、怨みなき世界があらわれるのだ。たとえば、私たちが誰かに対して望んでいることが、祈っても、突ついても、言葉で諭(さと)してもいつまでも動かず叶(かな)わないように見える場合があるのは、誰の責任でもない。それは三界唯心によって、心が認めたものが繰り返し現れているだけに過ぎない。

 

これを打開するためには、自分が握(にぎ)っている「都合」を捨て、「執着」を捨て、「我見」を捨て、ただただ実相を拝み感謝し喜ぶことである。こちらが無条件になれば、相手も無条件に、実相(ほんとうのすがた)をあらわすのである。宇治本山の総務をしておられた藤原敏之先生は、ご著書へのサインに、「唯(ただ)有り難い」「唯嬉しい」「唯楽しい」などの言葉を綴られ〝無条件の感謝〟について提唱して仏心を伝えていた。無条件とは、一切の怨みを捨て、あらゆる執着を捨て、相手を根底から赦(ゆる)す捨徳の実践である。「現象無し!」と無条件に赦して感謝して喜びお礼を言う心境になれば、住む世界が一変するのだ。

 

無条件になるとは、神の前に幼な兒(ご)となることである。現象的な何もかもを脱ぎ捨てることである。生長の家の教えは、これから神想観してから、聖経を読誦してから、修行してから「神の子」になるのではない。私たちは初めから自性円満な神の子なのだ。神の前に幼な兒となるとは、外から何かを付け足さなければ完全になれない、というような一切の現象的な条件(無明(まよい))を脱ぎ捨てて、神の前に臨むことである。素っ裸になって神の懐(ふところ)に抱(いだ)かれることである。

 

〝無条件〟になれば、天地のすべてが、その実相を顕わにする。それは深い眠りから私たちが覚醒するように、蝉(せみ)が旧い殻(から)から脱皮するように、私たちは「自我」という旧我の殻を脱ぎ捨て、いのちの本来の相(すがた)に目覚めるのである。

 

幼な兒の心になって天地に願えば、天地の渾(すべ)てをもって応え給うのが仏心である。生長の家の「天地一切のものに感謝せよ」とは、天地一切が〝仏のいのちであり、初めから大調和している〟という教えである。

 

仏心に生かされて生きることほど楽で自由なことはない。自分が頑張ることを止め、仏の慈悲喜捨に帰一して生かされるのである。

 

仏心に生かされるとは、「すべてを仏の家に投げ入れて生かされ」ることだと道元は伝えている。仏心とは私たちと離れたところにあるのではなく、私たちは仏心から生まれてきたのであり、仏の四無量心は私たちの〝本念の願い〟なのである。故に愛を生きるとき、慈悲を生きるとき、私たちが楽になるのは、それこそが本来の相(すがた)であるからである。