「中心帰一と無償の愛」(No.3)


教化部長 久都間 繁

 

 その昔わたしが生長の家青年会に入ったとき、「中心帰一」という言葉が、長年に渡る私の公案となった。公案とは、禅宗で悟りを深めるための課題のことだが、なぜ課題なのかと云えば、当時の私には、これがさっぱり分からなかったからである。

 

 「人間神の子」を説く生長の家のみ教えには強烈な魅力を感じていた。だから中心帰一の言葉の背後には、さぞや深い意味と、悟りの荘厳な世界があろうと想い、聖典や『古事記』を繰り返し拝読し、各地の御陵(みささぎ)を巡拝させてもいただいた。中心帰一の真理は理屈としては理解できる。語れもする。しかし今ひとつ腹の底で納得していない、そんな時期が何年も続いていたのだ。

 

 振り返ると、中心帰一とは、私たちの信仰が「いったい何を中心としているのか」ということを、この言葉が厳密(げんみつ)に問い掛けていたのである。信仰の中心が、一切の形を超えた宇宙大生命にあるのか、それとも、因縁や知識や経験によって生じた現象を拠(よ)り所(ところ)としているのか。形の上で同じことを行じていても、この違いが、信仰に画龍点睛(がりょうてんせい)の光明の燈(ひ)が点(とも)るか否かの天下分け目となるのだ。もし私がここを曖昧(あいまい)にして、現象に中心を置いていたとしたら、唯神実相の信仰への純粋な熱意も悦びも消え失せていたことだろう。だから皆さんも、「これで分かった」なんて安易に妥協して通り過ぎてはいけない。実相は、とことん楽で、途轍(とてつ)もなく自由で、底抜けに嬉しいものであることを忘れてはならない。

 

 中心帰一とは、単なる目標でもスローガンでもない。生々躍動する宇宙の真理である。道元はこの悟りを「眼横鼻直(げんのうびちょく)を認得して(中略)空手(くうしゅ)にして郷に還る」(永平広録)と云った。空手(くうしゅ)とは、手ぶらであり無所得(むしょとく)である。無所得とは「空の真理を理解し、一切の物事に執着しないこと」と、大辞林にはある。なぜ一切の物事に執着しないのか。それは今、ここに、あなたの中に渾(すべ)てのすべてが在(あ)るからだ。その宇宙大生命(天之御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ))と一(ひと)つの生命(いのち)であったという真理に目覚めること、それが中心帰一であり、「眼横鼻直(げんのうびちょく)を認得」することである。

 

 私たちは、誰かから「あなたは徳積みが足りない」とか「まだまだ愛行が足りない」などと、現象だけ見て云われると心外な想いがするものである。なぜなら、これから愛を与えるのではない、すでに、はじめから神の子は〝愛〟そのものであり、無尽蔵(むじんぞうに)に愛を与えていたからだ。神とともに、すべての生きとし生けるものを無償(むしょう)の愛で生かしていたのだ。その与えっぱなしの太陽のような実相を観じて、心底から悦ぶこと。それが神想観であり、そこに中心帰一の信仰を生きる醍醐味(だいごみ)がある。そこから人類光明化運動の「久遠を流るるいのち」の悦びが湧出してくるのだ。