「自然の美について」(No.1)


教化部長 久都間 繁

 

 この四月、八ヶ岳の国際本部〝森の中のオフィス〟から東京第二教化部に赴任しました。赴任とは言いつつも、予てから〝子育ては自然豊かな環境で〟と考えていた私は、原宿の本部に勤務していた二〇〇二年に青梅に家を買い、すでに定住して十四年、調布に住んでいたときを合わせると教区に来て十六年になります。子供たちも生命学園に通いながら育ち、親しくお付き合いさせていただいている誌友の方も多く、赴任というよりも第二のふるさとに帰らせていただいた想いがしています。

 

 さて、次に紹介するのは、教区から二年ほど離れて生活した八ヶ岳でのエピソードです。それは昨年の夏至のことで、仕事が山積して身も心もオーバーフローとなり、途方に暮れながら帰路についたことがありました。徒歩通勤していた私は、ふと空を見上げると、木々の間から真っ白い空がぽっかり浮かんでいるのが見えました。するとどこからともなく「ああ、今日も生かされていた…」という〝想い〟が、何の脈絡もなくふわっと湧いてきて、心の重荷がすーっと消え、どこか別世界に出たような気持ちになったことがあります。いまから想えば、仕事の山積は相変わらずでしたが、森や空などの自然に触れたことで、心が現象を超えた〝いのちの世界〟に解放されたような、そんな経験でした。

 

 また昨年、春と秋に八ヶ岳に登りましたが、山を歩きながら、この広大な森には誰の目に触れることなく美しく紅葉し、そしてひっそり散っていくカエデや、人知れず花ひらいて誰にも見られることなく散っていく花が、毎年どれほどあることかと想いました。

 

 彼らは、誰に認められようとも思わず、ただ神から授けられた生命を、与えられた一隅で精一杯生きて、いのちを燃焼させています。それが私たちが通勤などの折に、ふと山や森や、通りすがりの庭木を見たときに出合う、あの自然界の「美」となって現れています。その美しさに触れる度に、新約聖書にある、「今日ありて明日、炉に投げ入れられるる野の草をも、神はかく装い給えば、まして汝らをや」(マタイ伝)という言葉を思い出します。

 

 私たちも今、それぞれが生活するその場その場で、自性円満なる神の子のいのちが美しく花ひらいているのです。自覚してもしていなくても、実相から観れば、今ここに永遠の「美」があらわれ、神の国にある新価値が生まれ、荘厳な光りが誕生しているのです。自然を観ていると、そんなことを思い出させてくれます。

 

 皆さまと共に、自然界のように深く、厳かで、心底から楽しい運動を、これから展開していきたいと思います。