2018年1月22日(月) 05:29 JST

「神に遠慮しないこと」 (多摩川のほとりにて22)

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教化部長 久都間 繁

 昨年十月ごろから「真理講話による地区訪問」をさせていただき、二十数会場を廻らせていただいた。その折に「四無量心を行ずる神想観」を皆さんと実修させていただいたが、この祈りについて、若干の所感を書かせていただこうと思う。

 「四無量心を行ずる」とは、いったい何ものが「行じる」と皆さんは思われるだろうか。もし「私」が行じているのだとすれば、この祈りは、その力も効力も「私」という〝自我〟の及ぼす範囲が限界となることだろう。しかし四無量心の「無量」とは、量が無い即ち〝無限〟を意味する言葉である。ということは、この祈りは「私」が行じているのではなく、私たちに内在する仏性が行じているのであって、「私」の入る余地はないのである。別の言い方をすれば〝私は無い〟のであり、私と思わせていただいているものの本質は、まごうことなき仏性であって、これまで一度も仏から離れたことなどないのである。その仏性が行ずるのが四無量心であり、行ずれば行ずるほど仏(実相)に目覚め自性円満の自覚が深まるのである。

 では、仏の慈・悲・喜・捨の及ぶ範囲はどこまでだろうか。これもまた無量であり、その及ばざるところは無いのである。私たちは何の疑いもなく人間知でさまざまな限界を設けていることに気づかずにいるのであるが、四無量心の及ぶところは〝宇宙隈無(くまな)く〟ということにほかならない。
 仏の四無量心とは無限大の抜苦与楽(ばっくよらく)の働きであり、「苦しみを除き」と云えば苦しみは除かれるのであり、「楽を与え」と云えば楽は与えられるのである。その仏の〝無量の慈悲〟を私心で見かぎってはならないのだ。私たちの運動は信仰運動なのであり、その運動を人間知によって限定するところに神性隠蔽(しんせいいんぺい)が生ずる。

 つまり四無量心を行ずるとは〝限定無し〟である。限定なしとは「遠慮してはいけない」ということである。現象的な価値を基準にして遠慮することは、一見奥ゆかしいようでいて実は神性隠蔽となり、仏性(神)を自我によってツツミ陰(かく)す(罪)ことになり、そこからあらゆる禍事(まがごと)めいたものが生じ、遂に今生(こんじょう)において神性を顕現させる機を失うことにもなる。その最大のものは「神に遠慮すること」である。生長の家を信仰していてこれほど勿体(もったい)ないことはない。遠慮なく神に願い、遠慮なく神に委(ゆだ)ね、どんな小さなことでも、どんなに私的で細やかなことでも、またどんなに遠大なことでも〝遠慮なく〟神に願い委ね、全托するのだ。その最たるものが「四無量心を行ずる神想観」である。

 講習会の推進も、へたな遠慮をしていてはいけない。これは神と共に行う純粋な宗教行である。これの推進を機に、私たちのあらゆる願いを、諦(あきら)めかけていた夢を、叶(かな)わないと思い込んでいた心願の一切を、祝福の祈りと共に成就する。それが自他ともに救われる生長の家の信仰であり、講習会推進の真の目的であり、神の子としての使命、すなわち一筋の光の道を踏み往(ゆ)くことである。


  • 2018年1月13日(土) 19:24 JST
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「自然と人間との深い絆」(多摩川のほとりにて21)

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教化部長 久都間 繁

 年末年始は、古代から受け継がれてきた行事や伝統が生活に色濃く現れるときでもある。日照時間が最も短くなるこの時期、冬至祭などの太陽にまつわる行事が北半球の各地で行われ、欧州ではゲルマン人の間にあった太陽神崇拝がキリスト教公認後は夏至は聖ヨハネ祭、冬至はクリスマスとなって伝えられ、日本では天下万民の罪穢(けが)れを浄める大祓(おおはらい)が行われている。

 夜の暗が深くなるこの時期は、星の光が最も輝きを増し、自然と人間との深い絆(きずな)に想いを致すときでもある。わが家では、七年ほど前から冬の暖房をバイオマス燃料(木材)を主原としたペレットストーブに切り替えた。これは循環型エネルギーである製材所から出たおが屑(くず)や間伐材を圧縮したものを燃焼させるストーブで、これの最大の利点は、化石燃料を使わずに家の中で暖炉なみの火を焚いて、安全に暖をとれるところにある。

 火は、死と破壊をもたらす一方で、私たちの生活に欠かすことのできない恩恵をもたらすため、古来から家庭で火のある場所は、神や先祖へと繋がる聖なる〝場〟とされていた。その「火」が家庭から消えたのは、数万年に及ぶ人類の歴史の中でもほんの数十年前のことで、火に替わって家の中心に据えられたのがテレビであった。そこからは間断なくコマーシャルが流れ、私たちの生活に文明の利器が次々と導入された半面、最も大切なものをどこかに置き忘れて来たのかもしれない。日本における年間三万人に及ぶ自殺者は、物質的な豊かさの中で失ったものの大きさを物語っている。その一つは、家の中心に置かれていた〝火の文化〟の喪失(そうしつ)であろう。

 洋の東西を問わず、囲炉裏、暖炉やペチカなどを囲んで家族で暖をとりながら心のひだに触れる会話が重ねられていたのだ。ペレットストーブはこの火の文化を蘇らせるための道具でもある。本ものの炎を見つめながら暖をとっていると原初的な気分に包まれるのが心地よい。手間の掛かる薪ストーブや暖炉に替わるものとして市街の住宅でも使えるため、欧州で広く普及し、日本でも次第に使われ始めている。

 さて、十二月末に青少年冬季一泊見真会(小・中高 23~24日)を開催する。初日は野川公園に行き倉橋、笹井両氏の生物学者の指導で、落ち葉の降り積もった冬の自然を観察して、子どもたちに樹木や生きものの生態に直接触れていただく予定だ。また、ガランとした冬木立の中を伸び伸びと駆け回ることで年末のうっ屈した気分を吹き飛ばし、翌日には「しめ飾り」と「鏡もち」を作り、これを家族へのお土産として晴れやかな気持ちでお正月を迎えていただこうと思う。合わせて餅つき大会も開催する。杵(きね)と臼(うす)を使った、つきたてのお餅でお昼がふるまわれるため、都合のつく方はお手伝いでご参加いただければありがたい。お正月を迎える前の、時の潮が静かに満ちてくるような、そんな懐(なつ)かしい時間を共に過ごしていただき、来春の講習会推進の活力にしていただければと思っている。

  • 2017年12月15日(金) 10:18 JST
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「仏のいのちの展開」 (多摩川のほとりにて20)

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教化部長 久都間 繁

 終末論は、世界の終わりを告げる教義とされているが、かつて大学で西洋思想史について学んでいたとき強く印象に残ったのは、「キリスト教文化圏(西洋)に住む人々の時間は、一直線に終末へと向かって流れている」という、驚くような時間感覚だった。つまり、すべての人生が、歴史が、森羅万象が、終末へと直線的に突き進んでいて、その「時が来る」と、神による最後の審判が行われ、善き者は天国へ、悪しき者は地獄へ赴くというものだ。

 一方、日本や東アジアにおける伝統的な時間感覚は、現代では見え難くなっているが基本的には循環(じゅんかん)型である。春夏秋冬のようにぐるぐると廻るのだ。例えば一年は元旦から始まり十二月の除夜の鐘(かね)とともに往(ゆ)き、年が明けて日の出を迎えて新生する。また干支(えと)も子丑寅(ねうしとら)…と十二年で一周し、さらに六十年を経ると還暦(本卦還り)となる。また、人の一生も死によって終わらず、輪廻転生(りんねてんしょう)を繰り返し生まれかわるとされている。また現世における家督(かとく)や公的な事業も、次世代へと代々受け継がれて更新する。これは自然のいとなみと共に無限生長を持続する循環型の時間である。

 私たちは「時間」をどのように観るかによって、それぞれの価値観や生き方が決まる。道元は、時間を「いのち」と観ていた。時間を物質空間を流れる単位と見るのではなく、森羅万象(しんらばんしょう)となって現れる〝仏のいのちの展開〟として拝んだのである。そのような生命の時間における人生は、たとえ躓(つまず)きや失敗があったとしても、何度でもやり直しや挑戦ができる生命顕現の〝場〟となり、すべてが生長の糧となる。が、終末的な直線時間の場合はそうは行かないだろう。

 あまり意識されることはないが、生長の家の運動方針は、国際本部の〝森の中のオフィス〟移転とともに暦(こよみ)のように一月始まりで十二月終わりとなる循環型へと変更された。これは、ある時点での「数」という結果を求める目的優先で直線的な運動から、「自然と共に」いのちを展開する循環型の運動へと、運動の時間軸が変化したことを意味している。

 「自然と共に伸びる」ことに重点を置いたことは、信徒行事要目における「一切の人に物に事に行き届くべし」という信仰の原点への回帰であり、人間のみならず「天地一切のもの」を救わずにはおかない神の愛、仏の四無量心が運動の核心部分として顕れたのである。つまり、慣習によって進められてきた「目標数」の達成という目的優先(三次元)の運動から、神・自然・人間の大調和を目指した生命的な意味優先(七次元)の運動へと根源的な転換を遂げたのであり、それは十把一絡(じゅっぱひとから)げ的な運動ではなく、森羅万象とともに神のいのちを生きる、愛と祈りを成就するための運動となったことを、あらためて思うのである。私たちはここに起ち、講習会を仏の慈・悲・喜・捨の〝いのちの展開〟として、天地一切のものとともに推進する。そこから過去・現在・未来のすべての時間が成仏するのである。

  • 2017年11月13日(月) 17:13 JST
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「聖なる中心を生きる」(多摩川のほとりにて19)

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教化部長 久都間 繁

 豊穣(ほうじょう)の季節を迎えている。生高連の歌に「愛国の情(じょう) 父(ちち)に享(う)け 人類愛を母に享け 光明思想を師にまなび」という詞がある。生長の家の信仰を谷口雅春先生が讃えた歌詞であるが、「愛国の情」を享け、あるいは「人類愛」だけを享けるのでなく、「光明思想を師にまなび」得てこそ生長の家の信仰となるのだ。み教えと出合ったご縁、それは病苦や家庭苦や経済苦を解決するために入信された方も多かろう。しかしこの神縁があればこそ、私たちは聖なる大使命に目覚め、神の運動に参画できたのである。

 個人救済の門から入って愛行に加わることで、私たちは人類愛に目覚め、菩薩として運動に身を挺(てい)する中から光明思想に眼(まなこ)開かれ、唯心実相の深奥を、真の叡知を学ぶことができた。このことは、たとえば愛国心だけでは他国や他人との闘争が消えず、人類愛だけでは具体的な結実は見えず、光明思想だけでも小乗の域を出ない。これらをムスビ、そして深く展開するところに三正行の重要性がある。

 内外の情勢が揺れ動いているとき、果たして自分は、いかなる中心に帰一して運動を展開しているのであるか、ということをよくよく吟味(ぎんみ)して事に臨みたいものである。中心とは、生長の家の運動においては、「生長の家大神――総裁・副総裁――御教(みおしえ)」である。これを不動の中心として、信仰と運動とが相矛盾(むじゅん)することなく喜びと感謝をもって生活するところに〝無の門関〟の透過があり、信徒行持要目にある「常に自我を死に切るべし」の実践があり、人間神の子の信仰から「神の子・人間」の信仰へと飛躍するのである。

 もしここに矛盾や、曖昧(あいまい)さを抱えているとすれば、それは誰の責任でもない、己(おのれ)の信仰が、現象に連れ去られているのである。ここをいい加減にして通り過ぎていたのでは、どんなに立派な大義名分(めいぶん)の旗を掲げたとしても、それは信仰の形骸化(けいがいか)であり、苦悩の因や禍根(かこん)を残すことにもなろう。中心を眩(くら)ましていては、いつまでも救いの機は訪れない。中心帰一とは、自己と神との同一性(実相)を見出して生きることである。天皇というも日本国実相顕現というも、光明思想と無関係の信仰など、生長の家にはないのである。

 中心とは、自己の根源であり、光明の本源であり、聖なるものである。人間神の子の教えは、この聖なる中心を自ら生きることである。それは生活面では神意に添った美しい倫理的な生き方となり、信仰面では日々の神想観となり、聖典・聖経の読誦となり、隣人への愛行となる。「君民同治の神示」には「天孫降臨(てんそんこうりん)とは人間自身すなはち民自身が天孫であり、神の子である自覚の反映にほかならない。かく天皇の神聖性は人民自身の神聖性より反映するのである」と説かれている。国際平和信仰運動そして日本国実相顕現とは、私たちが人間・神の子を悦んで生活する日時計主義の生き方から具体化するのだ。楽々と「ただ実相(そのまま)であれ」ばよいのである。

  • 2017年10月14日(土) 15:04 JST
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「現(うつ)し身の使命について」(多摩川のほとりにて18)

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教化部長 久都間 繁
 
 かつて禅寺の一室を借りて誌友会を開いていた旧友が、そこの和尚に「霊界」について訊(たず)ねると、「ふすまの向こうの隣の部屋だ」と語っていたそうだ。四十年以上も前の話だが、霊界は〝もっと近い〟というのが真相かもしれない。なぜなら、こちらから向こう(霊界)を覗くことはめったにないが、向こう側からは、どうやらその気になりさえすれば、いつでもこの世(現世)のことは〝お見通し〟と思われるからである。
 
 今年の六月、恩師の霊前にお参りするため、故人宅を訪問してご家族の皆さんと会食する機会があった。思い出話に花を咲かせ、これまでの神慮や近況などを語り合っているとき、突然「ガチャン!」と、仏壇付近で大きな音が鳴った。一瞬なにが起こったのか分からなかったが、よくよく見ると、数時間前にお線香をあげてチーンと鳴らした台座のリンが、誰も触れていないのに、跳ねて、飛んで床に鎮座(ちんざ)しているではないか――その場にいた皆が来訪を察し、タイミングといい登場の仕方といい〝なんて先生らしい!〟と、皆で大笑いしたのであるが、さては、「吾々の話をずって聴いていらっしゃったのか」と思った。
 
 さて、死を境(さかい)に住む世界を異(こと)にするとは、いったいどういうことか。死とは、現界の生活の一切を捨て、新世界に誕生するという不思議な経験を経ることであるが、不思議と見えるのは、現界に住む私たちが全容を見通す機会が希(まれ)だからであろう。しかし「観」の眼で観れば、現世も霊界も念の世界であり、これら両界の〝救い〟の原理もまた同様である。
 
 「念」を調律するための行事として、生長の家では神想観を教えていただいている。これは宇宙大生命の慈悲の現れである生長の家大神が直接導き給うから、これほど確かな「行」はない。『生命の實相』劈頭(へきとう)にある黙示録に、久遠のキリストの言葉として「生と陰府(よみ)との鍵(カギ)をもてり」と記されているのは、顕幽(けんゆう)両界の一切を司る本源者を意味している。念の浄化とは、顕幽を彷徨(さまよ)う境涯から、その本源者(神=光)に帰ることにほかならない。
 
 神の子の境涯を生長の家では「聖使命」と讃えている。それは、「神より出でたる光」として〝聖〟なる使命を生きることである。大神が守護する無限愛のネットワークの恵みの体系、それが現世における「聖使命会」の制度となって現れている。それは神の慈愛の流れが顕現した相(すがた)であり、その最先端の〝光り〟が私たち聖使命菩薩である。
 
 聖典には、伝道は利己的動機が含まれない〝純粋な献身(けんしん)〟が要求される、と説かれている。今できる〝純粋な献身〟の中から、実相世界さながらの仏国土が現成する。この世界で、このご縁に、生きとし生けるもののために「献身できる」ということが、現世に、私たちが〝現(うつ)し身〟としての肉体を授けられている真の理由であり、仏の四無量心を生きる、私たちの聖なる使命であることを、恩師の奇瑞(きずい)に接して、あらためて想うのである。
 
 
  • 2017年9月13日(水) 12:01 JST
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「霊界浄化について」(多摩川のほとりにて17)

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教化部長 久都間 繁
 
 四半世紀近くを経ても、阪神淡路大震災のことが時おり脳裏(のおり)に蘇る。あの朝、私がいた宇治本山では神想観の最中だった。時間の経過とともに次第に阪神地区の犠牲者が明らかになり、最終的な死者は六四〇〇人に達した。十六年後の東日本大震災では二万人弱の方が犠牲となり、福島第一原発事故に到っては、未だ収束の目処が立っていない。二〇一四年、宇治に「自然災害物故者慰霊塔」が建立されたが、現象の背後にある、問題の核心部分の解決は、まだまだこれからである。
 
 龍宮住吉霊宮(総本山)や宝蔵神社(宇治本山)を谷口雅春先生が建立された主用な目的は〝霊界浄化〟にある。現在蔓延(まんえん)する、物質的な繁栄に偏重した唯物思想は、その背後に霊界浄化という大きなテーマがあることを示している。霊界は物質を越えた世界であるが、なぜ唯物思想と霊界とが深く関係しているのかといえば、霊界に住む多くの御霊たちが、未だ人間神の子の真理を知らざるが故に、現象に執着し、それに現世の人々が付和雷同しているのである。現象は心のカゲに過ぎないのであるが、それを実在と思い違え、恵みのすべては神のみから来るにもかかわらず、それを忘却したところに生ずるのが、唯物思想であり、人やモノへの執着であり、利己主義である。この無明を吹き払い、人間・神の子の自由な境涯へと導くことが霊界浄化であり、その使命を担っているのが生長の家である。
 
 身近なところでは、隣人との対立や葛藤(かっとう)なども、顕幽両界の執着が深く関係している場合がある。肥大化した欲望を制御することもできず、身近な者や人間同士が憎悪し、奪い合うことほど悲しいことはない。その最大の犠牲者が〝自然界〟である。この桎梏(しっこく)とも見える苦界に、愛の光を灯し、信仰の慈雨を注ぎ、大調和の世界を開くのが生長の家の運動であり、菩薩としての私たちのお役目である。
 
 祝福とは、生きている者と霊界の諸霊ともに成仏させることである。成仏とは、これから成るのではなく、すでに仏のいのちは鳴り成り響いているのだ。その実相を観じ歓喜の光明を灯すのが神想観である。潜在意識は、心理学から見た不可視の世界の消息であり、霊界は、宗教やスピリチュアリズムから見た消息である。潜在意識も霊界も、ともに一つの〝いのちの世界〟である。その中心にいるのがあなたである。あなた一人の信仰の悦びが、九族を救う大光明となるのである。
 
 対立している人が現れているように見える場合がある。これらは過去の迷いが消えていく姿である。だから腹立てたり、対立したり、ねじ伏せようと力んではならない。それは無明が無明と相撲(すもう)をとるようなもので、いつまでも問題は追いかけてくる。こんな時こそ、「祝福」の出番である。その祈りの一つが「四無量心を行ずる神想観」であり、霊前での先祖供養である。あなたの祈りが、霊界と現界とを浄め、人類から鉱物に到るまで、天地の万物を救う。それが、「人間は神の子である」というコトバの真意である。
 
 
  • 2017年8月16日(水) 10:12 JST
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「絶対他力について」(多摩川のほとりにて16)

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教化部長 久都間 繁

 生長の家の唯神実相の教えは、「絶対他力の信仰」と表現される場合がある。絶対他力とは、神に無条件に生かされ、愛され、赦(ゆる)されている、ということである。天地の万物は神の生命(いのち)の現れである、とみ教えは説く。私たちが使う道具も、それを持つ指も五体も、眼も耳も口も、頂く水も食物も、大地も風も太陽も、すべては神からの恵みだったと、天地一切のものに感謝する教えが生長の家である。

 では、なぜ普段、私たちはそのことを忘れていることが多いのだろうか。たとえば「人間は神の子だ」と自覚していたとしても、知らず知らずのうちに心が、現象(物質)に支配され、いつしか現象に振り回されていたのでは、すでに与えられている沢山(たくさん)の恵みが見えなくなり、取り越し苦労、持ち越し苦労の境涯に彷徨(さまよ)うことにもなる。そんな鎖された状態は、一切の〝執着〟を捨て去らない限り、いつまでも私たちの人生を縛(しば)ることにもなろう。

 仏の四無量心の一つである「捨徳」の実践は、人やモノへの執着を捨て去るだけではなく、これまでの自分の考え方・ものの見方という後生大事にしてきた心のモノサシをも捨て去ることである。天理教祖は、無明をホコリに喩(たと)えて曰(いわ)く、「惜しい欲しい可愛いと、欲と傲慢(ごうまん)、これがホコリや」。かわいい自分を捨て去らなければ、神の御心を、本当は観じることも、味わうこともできないのである。神意が、自分を捨てずして得られるものならば、それは自分の都合の良いことだけを切り取って〝神意〟と呼び、神の御心でもなんでもない現象のカケラを追い求めているだけかもしれない。それでは、魂の渇(かわ)きは永遠に癒(い)えないだろう。神意とは、無条件に天地の万物を生かし給う叡智であり、大慈悲である。それは自分や人間だけに都合の良い、などというような偏(かたよ)ったものではない。

 私たちは植物によって「食」を与えられ、大地によって生活の「場」を与えられ、太陽の恵みは、私たちを取り巻く自然界となって現れている。天地万物ことごとく神の愛なのである。捨徳とは、現象の自分、ニセモノの自分を捨て去ることで、天地に満ち給う神の愛(純粋贈与)と出合うことである。そこから初めて、み教えが説くところの自然流通(じねんるつう)(無限供給)の世界が開けてくる。
 
 絶対他力とは、神の絶対愛に生かされているということである。それは今ここに〝無条件に〟生かされ、赦されている事実を見出すことである。これから神の愛に満たされるのではなく、すでに十全に満ち溢れ、成就しているのが実相である。コトバは神であるとは、私たちの語る善きコトバこそが地上(現象世界)に、天国浄土を自在に生み出す権能(ちから)をもっている、ということである。それは他でもない、コトバの使途(しと)の一切は、神の子であるあなたに委(ゆだ)ねられているのである。それが〝人間は運命の主人公である〟ことの理由であり、神示に説かれた「今すべての病人は起つことが出来る」ことの所以(ゆえん)である。

  • 2017年7月15日(土) 14:33 JST
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「内なる神性」(多摩川のほとりにて15)

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教化部長 久都間 繁

 〝内なる神性〟とは、私たちの本質であり、実相のことである。これを仏教では仏性という。かつて同教では「一切衆生悉(ことごと)くのものに仏性が宿る」と解釈していたが、道元によって「一切衆生悉くが仏性そのものである」と喝破(かっぱ)され、釈尊の教えが世界に蘇った。教化部で毎月開催している真理勉強会(『「正法眼蔵」を読む』)は、これに推参して、道元禅師と谷口清超先生のライフワークから、教えの神髄を昧読して、私たちの生活に蘇らせる試みである。

〝内なる神性〟とは、「神は外にはない!」ということを示すメッセージだ。外に在(あ)ると思っている間は、永遠に、内に〝心の眼〟を向けることはない。が、「外ではない」ことがハッキリすれば初めて心の眼が内に向かう。そこに時空を超えた宇宙大生命(実相)を発見すれば、内や外などという現象は元々無かったことが分かる。

また〝内なる神性〟とは、私たちの内に在るキリストである。イエスを内に見出すことこそが、真の意味でのキリストの復活である。仮に、彼が、世界のどこかに復活したように見えたとしても、「吾と汝となんの関わりあらんや」とあなたは一蹴しなければならない。なぜなら、あなたを離れてキリストなど何処にも無いからである。

 釈尊は生まれて数日にして「天上天下唯我独尊」と宜り給うたが、それは〝内なる神性〟の誕生を祝す宣言である。釈迦が生まれたのは三千年前の過去ではなく、私たちの内に、常に誕生し給うている。その誕生仏を祝し、キリストの復活を祝う行事が、神想観である。祈りの坐が結ばれるところ、過去・現在・未来の一切が成就し、すべての行為は愛行となる。
〝内なる神性〟は、私たちを導き給う「吾が内なる神」である。『堅信歌』では、「吾が護り常に全し」と歌われている。それ(神)は「常に在る」が故に、守ったり守らなかったり、忘れたり見失ったりすることは決して無いのである。

 ある日の「四無量心を行ずる神想観」の折〝すべては神が為し給う〟と、内なる声がささやくのが聴こえた。一切衆生の苦しみを除くことも、悩みを和らげることも、楽を与えることも、喜びを与えることも、すべては神が為し給うのであり、私が為すのではなかったのである。私が為すのであれば、重荷にも感じ、苦痛とも感じ、成就するか否かも気になるのであるが、四無量心は神が、仏が、大生命が行じ給う大慈悲であり、それは地上天国実現に直結する荘厳な菩薩行なのであり、実修すればするほど、自他ともに楽になり、抜苦与楽の実践となり、仏のいのちが顕現するのである。

 すなわち抜苦与楽とは、〝本来の相(すがた)に帰る〟ことにほかならない。私たちの本来相は、神性・仏性であるから、ここに帰ることは時空を超えて渾(すべ)てに充ち給うことである。つまり宇宙に満ちる人間・神の子の実相(宇宙大生命)に帰ることこそが「楽」ということであり同時に「喜び」であり、中心帰一の醍醐味であり、神の子・人間の復活のときなのである。

  • 2017年6月13日(火) 10:14 JST
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「天に満ち、地に満ちて」(多摩川のほとりにて14)

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教化部長 久都間 繁

 「天に満ち、地に満ちて」とは、祝福手帳の表紙に紹介した言葉である。「天」は神の遍満(へんまん)を現し、「地」は祈りによって成就する世界を現す。つまりこの言葉は、神想観の中身を語っているのである。イエスが「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」(マタイ六-十)と祈ったと聖書に記されているが、「天」はすでに成就している実相世界のことであり、「地」は祈りによって成就する三界唯心の世界のことである。

 私たちが〝願い〟の成就を祈るとき、み教えは「すでに受けたりと信ぜよ」と教えている。その意味は、実相世界に既に成就している完全円満な相(すがた)を深々と観じ感謝することが祈りを叶えるカギとなる、ということだ。つまり「地」は現象であり〝心のカゲ〟であるから、「天」(実相)を豊かに観じて喜び感謝していれば、おのずから全てが成就するのが心の法則である。だから現象を変えようと力む必要はない。不完全と見える現象を相手にして、それを〝変えよう〟と、不完全を心に認めていたのでは、その印象が種(たね)蒔(ま)かれて具現する。それでは、いつまでも地を成就することはできないし、生長の家はそんな中途段階の信仰を説いているのではない。

 願いを叶えるポイントは、くどいようだが「みこころの天になる」世界をいかに味わい、喜び、感謝するか、ということに尽きる。その前提として、神想観を通して「現象なし」を徹底し、五蘊皆空(ごうんかいくう)と照見することから天地が開けるのである。それは「創世記」第一章にある「神光あれと言(いい)たまひければ光ありき」というコトバの実践である。「光あれ」とは、照り輝く「みこころの天になる」世界がコトバによって鳴り響くことであり、やがて実相の光(智慧・愛・生命)は、夜が明けるように地に満ちてくるのである。

 総裁先生は、「めんどくさいが世界を救う」とお説きくださっている。五月上旬の連休中、わが家でも昨年来の懸案だった畑に息子と手を入れ、家の内外に置かれた大物小物の片付けに家内と励んだおかげで、随分と過ごしやすくなった。生活を離れて、真理の実践はないし、活かすべきものを生かし、捨てるべきものは捨て、切るべきものを切る営みの中に、調和と秩序と浄土があらわれる。つまり「めんどくさい」ことの内実は、人を物を事を、活かすことにほかならない。それは、光明化運動そのものの実践なのである。豊かさや、美や、喜びは、一見ムダと思える、手間ヒマを掛けなければならないことを通してのみ現れるのであり、畑も家も人も同じである。

 また、「地に満ちて」とは、一切のものに〝行き届く〟ことであり、行き届くことによって無明(まよい)は消えるのである。それを別の角度から表現すれば、手間ヒマを惜しまず、勇気を出して、新たな知見や発見から謙虚に「学ぶ」ということでもある。正しく学び知ることによってのみ、私たちの智慧は、暗を照らす力を得て光となる。信仰の真の喜びとは、その光を生きることにほかならないのである。

  • 2017年5月10日(水) 14:48 JST
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「久遠の青春を」(多摩川のほとりにて13)

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教化部長 久都間 繁

 西国分寺の史跡通りに咲く桜を見て、教区に赴任してからの日々が脳裏をめぐった。振り返れば、多くの皆さんと出会い、雲のようにアイディアが生まれ、会議での語らいの中から、いくつものプランが実現していった。そして、見えないところでどれほど支えられ、活かされ、導いていただいたことだろう。それもこの一年という日々があればこそのムスビ(神縁)であり、実りであることを実感している。

 先般、地域で行われた「熟年の集い」に指導に行った折り、参加者から「若さを重ねて、歳を重ねる」という意味の言葉を紹介していただいた。ここでいう「若さ」とは、魂を〝あらわ〟にして生きる、とでもいった意味ではないかと思われた。その〝若さ〟とは年齢のことではなく、生きている限り誰の内にも内在している〝いのち〟のことである。これを植物にたとえれば、新緑の季節には樹齢何百年の大木でも、その枝の先端の部分まで隈(くま)無く芽吹き、花の季節になれば細かな枝の先々まで、可憐(かれん)な花を咲かせているではないか。いのちとは、たとえ数百年、数千年を経ても、常に瑞々(みずみず)しく、柔らかで、豊かな感受性にあふれているのだ。私たちは、いのちそのものを包み隠さず〝あらわ〟にして生きるとき、常に若々しく、驚きに満ちて、新たなものとの関わりに興味と悦びを感じることだろう。この生命そのままの相(すがた)を、楽に、自由に、伸び伸びと生きるのが生長の家の人間・神の子の生活である。

 また、「若さを重ねる」とは、新発見の連続ということである。それは、日々訪れるこの世界の不思議から、素直に学び、驚き続けるところに見出す人生の最良の宝物である。生長の家の観行、誦行、愛行の中身とは、この神秘の扉をコツコツと叩き続けることにほかならない。これを怠(おこた)るところに倦怠(けんたい)や衰退(すいたい)が感じられるように見えるのであるが、これは魂が〝あらわ〟になっていないだけのことであり、年齢とは無関係である。生長の家の教えを生きる者にとっては、日々の当たり前と見えていることの背後に、久遠の青春の源泉がいつも湧出しているのだ。

 私たちは、「歳を重ねる」ほどに、いよいよ神の嬰児(みどりご)として蘇(よみがえ)るのである。イエスがベツレヘムの場末の馬小屋にあった飼い葉桶(ばおけ)の馬槽(まぶね)に生まれたように、また聖徳太子が厩(うまや)の前で生まれたという伝説も、それはたとえどのような場所でも、またどんなに劣悪な状況でも、条件を整えてからではなく、いつでもどこでも神の子のいのちは無原罪の相(すがた)で光輝燦然(こうきさんぜん)と誕生する、ということの象徴である。

 み教えは、「常に今が吉日である」と説く。思い立ったときが、ものごとを始める最良のとき。善きことをはじめるのは、常に「今」である。いま起(た)とう、そして善きことを今はじよう。そこから久遠生命の扉が開かれるのである。

  • 2017年4月25日(火) 15:49 JST
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