谷口清超先生、ありがとうございました(12月)

東京第二教化部長 各務 洋行

谷口清超先生、本当に本当にありがとうございました。今こうして書いているだけでも先生のやわらかいお顔が浮かんで来て、自然と感謝の言葉が出てしまいます。
私が先生と初めてお会いしましたのは、昭和55年の日本武道館で行われた「青年会全国大会」でした。その年から谷口清超先生ご夫妻単独のご指導となった大会でしたが、その時、私は先生の何とも言えない愛の雰囲気を感じ、青年会運動をするようになるのです。それから約10年後のこと、私は青年会中央委員として、初めて本部会館で中央委員会に出席しました。当時、午前中は先生からご指導があり、自己紹介で先生の前に進み「愛知教区の神藤洋行(じんどうひろゆき)です」(私の旧姓)と申し上げましたら、先生が「神藤、名前に『神』がついているねー」と少し驚いた様子で私を暖かく見つめてくれたことを覚えています。その後、私が本部へ奉職してからのこと、先生は通勤時、いつも空き缶拾いゴミ拾いをされていました。ジャンパー姿に帽子、軍手とビニール袋、遠くから見たら一見先生と分からない姿。でも合掌すると、気さくに手をあげて返してくれました。先生の暖かさがまたよみがえってきます。

また、先生は御家族の皆様にもとても愛情が深かった。昭和30年代、講習会で家を離れることの多かった時代、先生は御家族によく手紙を出されていました。谷口恵美子先生『こころの旅路』(P347~)には昭和38年12月の先生とご家族の往復書簡があります。先ず、谷口恵美子先生からお手紙を貰った先生のお返事です。

「恵美子さん。お元気ですね。僕もとても元気で徳島の第一日を終わらせて頂きました。…子供ちゃんはお元気でしょう。皆元気で、素晴らしいので、僕も何の不安もなく旅行をすることが出来ます。…皆元気で待っていて下さい。すぐ帰りますから。皆様によろしく。12月1日夜 清超 愛する妻へ」

その時の谷口雅宣先生のお返事(当時12才)
「おとうさま ぼくはきょう本部へ文化祭を見に行きました。…今日体重をはかったら前27キロだったのが1キロふえました。 雅宣より 親愛なる清超先生へ」

更に谷口清超先生のお返事
「雅宣さん、おげんきですか。げんきにちがいありませんね。…父ちゃんは今、高知市のやどやの電気こたつの上で、この手紙をかいています。…ではおげんきで、明るくたのしく、さようなら。 父より」

谷口清超先生の、愛する妻へ、子供ちゃん、と言う言葉、谷口雅宣先生の親愛なる清超先生へ、と言う言葉、愛情と尊敬の念が入り交じったお手紙には感動するのみです。

先生は最後の3年8ヶ月はご自宅で静養されました。その間、先生は人を心配させるようなことは一切口にしなかったそうです。そして亡くなる2日前の夜の様子を、谷口純子先生は「Web版『日時計日記』(2008.11/2)」で次のように紹介されています。

「私たちは、万感の思いを込めて、先生に感謝とお別れの言葉を述べました。夫は先生への感謝の言葉に続け、『生長の家は大丈夫ですから、ご安心ください』と言いました。私はその言葉を聞いて、あふれる涙を止めることができませんでした。そして清超先生はその夜から二日間持ちこたえ、28日午後10時21分にお亡くなりになりました」

谷口清超先生は最後まで心配させようとされなかった。愛そのものだった。そして谷口雅宣先生の清超先生への愛情。最後に言われた「生長の家は大丈夫です」の言葉。

皆さん、それを実現していくのは私たちです。谷口清超先生の人類光明化にかけられた思い、谷口雅宣先生の人類光明化にかけられている思いを、私たちはしっかり受け止めて、愛を出し切って東京第二教区の光明化に邁進して参りましょう。

生長の家東京第二教化部: 谷口清超先生、ありがとうございました(12月)
http://www.sni-tokyo2.jp/article.php/20081111064002975